アメリカ人が操る巧みな社交辞令:
昨日のライスボウル観戦記の終わり頃に、富士通のMVPを獲ったQBのキャメロンが「1~2年先のフェニックスが怖い」と言ったのを、彼ら独特の巧みな社交辞令であると指摘した。一般的にアメリカ人、それもある程度以上の教養を備えた者たちはこのようなお世辞とでも言いたいような社交辞令を実に巧みに操るのだ。
しかし、落ち着いて良く考えてみれば解ることだが、「1~2年先」と言ったのは、その裏を返すというか、私の好む「コインの裏側」を落ち着いて良く読めば「今は怖れるほど強くない」と言っているのに過ぎないと解るだろう。
彼らはフェニックスを圧倒して勝った上にキャメロンは最高殊勲選手に選ばれてコメント求められて「フェニックスは大したことはなかった」などと言えば礼儀に反するからこそ、キャメロン君はそこに社交性を発揮して「1~2年先は」と如才なく言ったのだと、私は解釈している。
アメリカ人、それも数少ない支配階層に属する者が多い組織の中で20年以上も過ごして見れば、彼らが実務の面でも私生活(言っておくが private という名詞には「私生活」という使い方はないのだ)でも、彼らの豊かな社交性を発揮して、実に巧みに社交辞令を使うものだと解ってきた。
言い方を変えれば「善くぞそこまで心にもないお世辞を面と向かって言えるものだ」と感心させられるほど、巧みに社交辞令を駆使するのである。それをそうとは知らずに聞かされた方は、非常に嬉しくもなるし良い気分にさせられることは疑いもないと思う。しかも、我々の場合はほとんどの場合に単なる社交辞令だとは容易に見抜けないものだ。慣れが必要だと思う。
私が彼らのそういう裏腹があるというか、社交性というか外交的というか、お世辞の上手さを思い知らされたのは、未だ英語そのものも良く解っていない戦後間もなくのことだった。1949年だったと記憶する。実はマイナーリーグ所属のサンフランシスコ・シールズが来日して何試合かして、未熟な我が国のプロ野球と対戦して大勝したことがあった。
監督のオドールはラジオのインタビューを受けて「日本のプロ野球も立派なものである。我々を相手の善戦したのだから、将来性がある」というようなことを語った。ところが、それとは別にFENだったかに英語で(当然か)インタービューされたのを、我が英語の師匠であるGHQの秘書の方が聞いておられ、私を呼ばれて「これを聞いてご覧」となった。
そこではおドール監督が「日本の野球はレベルは未だ未だ。あれでは我々に追い付くのは未だ未だ先のことだ」と平然と言ってのけていたのだった。今となれば、オドール監督が最初に褒めたのは社交辞令だと解るが、あの頃は「アメリカ人という奴らはなんて酷いことを言うのか」と無性に腹が立ったものだった。
この例が示すように、彼らは心の中では決して礼賛も評価も尊敬もしていない時でも、相手の立場を尊重するか慮って(彼らに顔を立てるという習慣はないが)、巧みな社交辞令を駆使して美辞麗句を使って褒め称えてみせるものなのだ。ましてや、その場合がテレビ等のインタビューであれば、必ず巧みに褒めるべき相手を綺麗な表現で称えてみせるものだ。
その辺りの巧みさを、私はこれも彼らの文化の一つだとすら考えている。彼ら最初から人の上に立つような可能性が高い家に生まれ、私立の有名大学の修士号を取るような若者は、そういう訓練を経てきていると私は解釈していた。言うなれば、彼らに何か言葉巧みに褒められたならば「巧言令色鮮仁」かと疑ってみれば良いのだ。決して額面通りに受け止めないことが必要だと言える。
家内などは多くのアメリカ人に接し、彼らの家庭にも招かれるという経験をしている。だが、悲しいかな英語などは一言も解らず、亭主の通訳を聞いているだけだった。だが、そこは女性の勘で「アメリカ人は何故皆あれほどお世辞が上手いのか。あれを本気で額面通りに受け止めたら大間違いだ」と見破っていたものだった。
だが、これの裏返しをすれば「我が国の人たちも、国際化だの何のと言う時代になった以上、彼らの中に入っていこうとするならば、彼ら並みの社交性を備えて、巧みに心にもないお世辞が言えて社交辞令を操れるように修行する必要があるのでないか」なのだ。
昨日のライスボウル観戦記の終わり頃に、富士通のMVPを獲ったQBのキャメロンが「1~2年先のフェニックスが怖い」と言ったのを、彼ら独特の巧みな社交辞令であると指摘した。一般的にアメリカ人、それもある程度以上の教養を備えた者たちはこのようなお世辞とでも言いたいような社交辞令を実に巧みに操るのだ。
しかし、落ち着いて良く考えてみれば解ることだが、「1~2年先」と言ったのは、その裏を返すというか、私の好む「コインの裏側」を落ち着いて良く読めば「今は怖れるほど強くない」と言っているのに過ぎないと解るだろう。
彼らはフェニックスを圧倒して勝った上にキャメロンは最高殊勲選手に選ばれてコメント求められて「フェニックスは大したことはなかった」などと言えば礼儀に反するからこそ、キャメロン君はそこに社交性を発揮して「1~2年先は」と如才なく言ったのだと、私は解釈している。
アメリカ人、それも数少ない支配階層に属する者が多い組織の中で20年以上も過ごして見れば、彼らが実務の面でも私生活(言っておくが private という名詞には「私生活」という使い方はないのだ)でも、彼らの豊かな社交性を発揮して、実に巧みに社交辞令を使うものだと解ってきた。
言い方を変えれば「善くぞそこまで心にもないお世辞を面と向かって言えるものだ」と感心させられるほど、巧みに社交辞令を駆使するのである。それをそうとは知らずに聞かされた方は、非常に嬉しくもなるし良い気分にさせられることは疑いもないと思う。しかも、我々の場合はほとんどの場合に単なる社交辞令だとは容易に見抜けないものだ。慣れが必要だと思う。
私が彼らのそういう裏腹があるというか、社交性というか外交的というか、お世辞の上手さを思い知らされたのは、未だ英語そのものも良く解っていない戦後間もなくのことだった。1949年だったと記憶する。実はマイナーリーグ所属のサンフランシスコ・シールズが来日して何試合かして、未熟な我が国のプロ野球と対戦して大勝したことがあった。
監督のオドールはラジオのインタビューを受けて「日本のプロ野球も立派なものである。我々を相手の善戦したのだから、将来性がある」というようなことを語った。ところが、それとは別にFENだったかに英語で(当然か)インタービューされたのを、我が英語の師匠であるGHQの秘書の方が聞いておられ、私を呼ばれて「これを聞いてご覧」となった。
そこではおドール監督が「日本の野球はレベルは未だ未だ。あれでは我々に追い付くのは未だ未だ先のことだ」と平然と言ってのけていたのだった。今となれば、オドール監督が最初に褒めたのは社交辞令だと解るが、あの頃は「アメリカ人という奴らはなんて酷いことを言うのか」と無性に腹が立ったものだった。
この例が示すように、彼らは心の中では決して礼賛も評価も尊敬もしていない時でも、相手の立場を尊重するか慮って(彼らに顔を立てるという習慣はないが)、巧みな社交辞令を駆使して美辞麗句を使って褒め称えてみせるものなのだ。ましてや、その場合がテレビ等のインタビューであれば、必ず巧みに褒めるべき相手を綺麗な表現で称えてみせるものだ。
その辺りの巧みさを、私はこれも彼らの文化の一つだとすら考えている。彼ら最初から人の上に立つような可能性が高い家に生まれ、私立の有名大学の修士号を取るような若者は、そういう訓練を経てきていると私は解釈していた。言うなれば、彼らに何か言葉巧みに褒められたならば「巧言令色鮮仁」かと疑ってみれば良いのだ。決して額面通りに受け止めないことが必要だと言える。
家内などは多くのアメリカ人に接し、彼らの家庭にも招かれるという経験をしている。だが、悲しいかな英語などは一言も解らず、亭主の通訳を聞いているだけだった。だが、そこは女性の勘で「アメリカ人は何故皆あれほどお世辞が上手いのか。あれを本気で額面通りに受け止めたら大間違いだ」と見破っていたものだった。
だが、これの裏返しをすれば「我が国の人たちも、国際化だの何のと言う時代になった以上、彼らの中に入っていこうとするならば、彼ら並みの社交性を備えて、巧みに心にもないお世辞が言えて社交辞令を操れるように修行する必要があるのでないか」なのだ。