沈黙の裏を察してくれるのは我が国だけの優しさであり美風なのだが:
先ほど採り上げた「文在寅大統領につける薬はあるのか」に関連して、我が国の国際交渉における奥ゆかしさと無用な遠慮がちな姿勢を、一昨年に論じたものを採録してあらためて論じてみたいと思う。要するに、沈黙が通用するのな我が国の中だけだのだ。
16年2月の事だった。国連女子差別撤廃委員会での杉山審議官の「強制連行説は捏造」発言の報に接して、あらためて我が国を代表して諸外国の隅々までに「我が国とは」を声高く正確に広報活動をすべきである外務省は弱腰であるだけに止まらず、西欧諸国との思考体系を含めた我が国との文化の違いを正しく認識も理解もしていなかったことが良く解った。誠に困った事態であると言わざるを得ない。
彼ら外務官僚は諸外国に派遣され、その任地先で現地の人たちと交流もするだろうし、高級官僚や政治家にも接触するだろう。現地の言語もある程度はこなせるようになるだろう。だが、敢えて言うが「私のように現地の会社に20数年も勤務し、彼らの文化と思想と哲学の下で仕事をする訳ではない」と思う。彼らの文化と思考体系に身を以て接する機会は私ほどにはなかったと思う。
私には英語圏の例しか採り上げられない。だが、その世界で強烈に知り得たことは、アメリカ人の頭脳構造には「以心伝心」は言うに及ばず、黙っている他人の心の中を察してくれるとか、言わなくても解ってくれるだろうという類いの優しい考え方はないという明白な思考体系の違いだった。それは「これくらいの細かいことは言わずもがなだ」などと気を抜くと相手先から「それは聞いていなかった」という結果になり、大失敗だと後になって恐ろしいほど解るもの。ましてや「捏造だった」などという重大極まりないことを真っ向から否定しておかないでいれば「真実だったと認めた」と解釈するのが彼らの手厳しい思考体系なのである。
世界の如何なる大きなスポーツの大会でもフェアープレー賞を取ってくるような綺麗で美しい試合をする日本だから、日本人だから、韓国が如何なる主張をしようと、吉田清治の捏造本を出そうと、朝日新聞が自虐的な記事を載せようとも「まさか日本人ほど綺麗な国民が、あのようなことをする訳がない」などと察してくれるほど欧米人はお人好しではない。黙っている以上、「反論も反抗もしないからには認めたのだ」と思うのが自然なのである。
大体からして「ノー・コメント」と言えば「自分に不利なことを言わない」と思っているらしい同胞が多いのは大間違いで、あれは「反論の余地がない」と認めたと解釈するのが英語圏の国の考え方だ。そんな外国を相手に良くも長年言うべきことを言わずに、今日の事態を招いたのは、私には外務省を含めた官僚と政治家の外国との文化と思考体系の違い知らずの責任が大きな位置を占めていると思えるのだ。
戦後70年を経て、これまでに数多くの「沈黙は認めたこと」の痛みを学習しながら、これまで汚名返上の手段を講じてこなかった外務省には大反省を促したい。もしかすると、外務省は弱腰ではなく「違い」を知らなかっただけではないのか。実は、この点はビジネスの世界で活躍する人たちも例外ではないと敢えて申し上げて終わる。後難を恐れて言えば「留学や駐在したことでは解るような違いではない」ということ。要するに諸外国と論争する場合には”Better late than never”なのだが。
先ほど採り上げた「文在寅大統領につける薬はあるのか」に関連して、我が国の国際交渉における奥ゆかしさと無用な遠慮がちな姿勢を、一昨年に論じたものを採録してあらためて論じてみたいと思う。要するに、沈黙が通用するのな我が国の中だけだのだ。
16年2月の事だった。国連女子差別撤廃委員会での杉山審議官の「強制連行説は捏造」発言の報に接して、あらためて我が国を代表して諸外国の隅々までに「我が国とは」を声高く正確に広報活動をすべきである外務省は弱腰であるだけに止まらず、西欧諸国との思考体系を含めた我が国との文化の違いを正しく認識も理解もしていなかったことが良く解った。誠に困った事態であると言わざるを得ない。
彼ら外務官僚は諸外国に派遣され、その任地先で現地の人たちと交流もするだろうし、高級官僚や政治家にも接触するだろう。現地の言語もある程度はこなせるようになるだろう。だが、敢えて言うが「私のように現地の会社に20数年も勤務し、彼らの文化と思想と哲学の下で仕事をする訳ではない」と思う。彼らの文化と思考体系に身を以て接する機会は私ほどにはなかったと思う。
私には英語圏の例しか採り上げられない。だが、その世界で強烈に知り得たことは、アメリカ人の頭脳構造には「以心伝心」は言うに及ばず、黙っている他人の心の中を察してくれるとか、言わなくても解ってくれるだろうという類いの優しい考え方はないという明白な思考体系の違いだった。それは「これくらいの細かいことは言わずもがなだ」などと気を抜くと相手先から「それは聞いていなかった」という結果になり、大失敗だと後になって恐ろしいほど解るもの。ましてや「捏造だった」などという重大極まりないことを真っ向から否定しておかないでいれば「真実だったと認めた」と解釈するのが彼らの手厳しい思考体系なのである。
世界の如何なる大きなスポーツの大会でもフェアープレー賞を取ってくるような綺麗で美しい試合をする日本だから、日本人だから、韓国が如何なる主張をしようと、吉田清治の捏造本を出そうと、朝日新聞が自虐的な記事を載せようとも「まさか日本人ほど綺麗な国民が、あのようなことをする訳がない」などと察してくれるほど欧米人はお人好しではない。黙っている以上、「反論も反抗もしないからには認めたのだ」と思うのが自然なのである。
大体からして「ノー・コメント」と言えば「自分に不利なことを言わない」と思っているらしい同胞が多いのは大間違いで、あれは「反論の余地がない」と認めたと解釈するのが英語圏の国の考え方だ。そんな外国を相手に良くも長年言うべきことを言わずに、今日の事態を招いたのは、私には外務省を含めた官僚と政治家の外国との文化と思考体系の違い知らずの責任が大きな位置を占めていると思えるのだ。
戦後70年を経て、これまでに数多くの「沈黙は認めたこと」の痛みを学習しながら、これまで汚名返上の手段を講じてこなかった外務省には大反省を促したい。もしかすると、外務省は弱腰ではなく「違い」を知らなかっただけではないのか。実は、この点はビジネスの世界で活躍する人たちも例外ではないと敢えて申し上げて終わる。後難を恐れて言えば「留学や駐在したことでは解るような違いではない」ということ。要するに諸外国と論争する場合には”Better late than never”なのだが。