新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

オリンピックを考える

2018-01-15 09:29:19 | コラム
高梨沙羅さんは大丈夫か:

14日のTBSの例の張本勲の「喝」の時間に、ゲストとして初めて登場したスキー連盟の競技本部長・皆川賢太郎常務理事がこの高梨沙羅について面白いことを言っていた。張本が近頃全然勝てなくなったことを案じて「踏切りに力がなく、あれではオリンピックでは・・・」と言い出した。

これに対して皆川氏は「心配していない。現在では封印している技があるので、いざとなればそれを出して勝ってくれると思う」と言ったのだった。私は「なるほど」とまでは思わないが、あり得ることでもあろうかと聞いていた。

それは、フットボールでは良くあることで、大事な一戦の前などの試合では対戦相手のスカウティング・テイームも来ていることだろうからと、一定数のプレーを封印して戦うのは寧ろ常識であるから。但し、ジャンプのような個人競技の種目でそういうことが可能なのなという疑問は感じた。勿論、そうすることで高梨沙羅が優勝してくれればそれに越したことはないとは思う。

私が以前から懸念していたことは「勝負事においてはその人が一生涯というか現役でやっている間に持っている勝ち運乃至は勝てる数には限界があるのではないか」という点である。即ち、勝負の神様のような存在が何処かにおられて「貴方の勝ち運はここまで」と決めておられるのかなという勘である。もしかすると「ドタ勘」かも知れないが。これを高梨沙羅に当て嵌めれば、もしかして53勝したところまでが勝ち運の限界ではなかったのかと心配しているのだ。

それと同じような懸念があるのが、女子のスピードスケートの小平奈緒と高木美帆の2人だ。彼女らは誠に優れた運動能力を見せる鍛え上げた走者であるのは間違いないと思う。だが、我が国ではオリンピックという場に出て勝たないと余り評価されないというおかしな傾向がある。故に、オリンピック前に余りにも勝ち過ぎてはいなかったと危惧しているのだ。即ち、もしかして彼女らが持っている勝ち運を使い果たしていなければ良いのだがと、一人静かに憂いているのだ。

同時に、私が言いたいことは「我が国ではマスコミも各競技団体も余りにオリンピック、しかもそこで獲得するだろうメダルの数に執着し過ぎではないのか」という点である。入賞は6位だったか8位だったか失念したが、そこまでに行っただけでは何ら価値がないかのような扱いは「差別ではないのか」と思っている。あれではオリンピックというよりも「国際メダル獲得競技会」の如きではないのか。各種の競技のW杯などはオリンピックで勝つ為の練習台かと疑いたくなるような扱いだ。

サッカーなどは既にオリンピックを見限ってW杯やクラブW杯が上位にあるような扱いにしている。マラソンを考えて見よう。マスコミもオリンピック、オリンピックと持て囃しながら、未だに20 km前後しか走れない走者を養成する為の機関であるような箱根駅伝という地方大会を読売を中心にあそこまで重要視し盛り上げている。そんなことをしていながら「お家の芸が不振だ」と批判するのか如何なものかと思う。

いっその事、あの駅伝を山登りと下りを除いて各区間を42.195 kmにしてみればどうだ。そうすると、各大学が一斉にアフリカから留学生を集めてくることになりはしないかと、空想している。そうなのだ、マラソンは既にアフリカ系の人たちに独占された競技になりつつあるし、他の種目にもそういう傾向が段々に顕著になっている。