自分でも呆れるほど楽観的だ:
実は、2006年1月15日(日)に第1回目の心筋梗塞で救急車で国立国際医療センター(NCGMで現在は国立国際医療研究センター)送り込んで頂いて命を救って頂いて、ICUに入った時には自分が如何なる重病人かが全く解っていなかった。担当の看護師(男性)に如何なる病気で何時頃退院できるのかを尋ねたほど間抜けだった。何しろ絶対安静で、寝返りをしたければナースコールで知らせろと命じられていたほどだっただ。
2日後には一般病棟に移ったがそこでも唯々何時帰れるかばかりを考えていて、ほとんど何の不安も感じることなく主治医と看護師の言われるままに日々を過ごしていた。何日か経って開始されたベッドの上で起き上がることから始まるリハビリも楽しくやっていたし、こんな何でもないことが何の役に立つかと思ったほど楽々とこなせた。実は、これさえこなしていれば帰れると信じていたほどnaïveだったのだ。
それから8年経った14年の12月30日に不幸なことが原因で3度目の心筋梗塞が中下降肢で発生して入院となった時は、かなり難しい危険な事態だったようでカテーテルによる処置に3時間も要し、担当された医師から「兎に角命は取り留めたので、入院してから時間をおいて再度試みる」と宣告されたほどだった。この時でも「俺は絶対大丈夫」と何の根拠もなく確信して、退院する日を楽しみに待っていた。
この時は途中からリハビリ課の理学療法士が病室に来て退院の前にリハビリをするよう主治医に依頼されたとのことで、1週間ほどストレッチとエアロバイク漕ぎをそれぞれ20分やるようになり、退院後は通いでも継続された。ストレッチは兎も角、20分間のエアロバイクは当初はかなりの負担だったが、体が馴れればそう苦にもならなくなった。
流石に退院後はジム通いは避けていたが、極力外に出て散歩するようにして足の衰えだけは防ごうと努力した。そして、16年の1月からジムにも復帰したが、愚かにも入院前のように体も足も動くものだと思い込んでいた。ところが、ストレッチをすれば関節が硬くなっていた動かず(体が硬くなっていたという意味で、英語では「体が柔らかい」と言うことを loose jointと言っていて、体とは言わない)足がふらついて、100 mのインドアトラックを1周も歩けなかった。
だが、それでも愚かな高齢者だった私は「必ず、倒れる前の100 mを60秒と一寸で歩けるようになるものだと信じ込んでいたので、全く動揺していなかった。だが、その復帰した頃に私の顔を見た馴染みの連中は皆「この人は保つのかな?」と本気で疑っていたと、後日聞かされたものだった。だが、現実には昨年の10月の気象病発症の前までは悠々と100 mを60~65病で歩けるようになっていた。
言葉を換えれば、私は愚かにもnaïveにも「如何なる大病をしても心配することはない、必ず発病前の調子に戻れるものだ」と思い込んでいるのだ。即ち、1年経てば年齢が一つ増えて老化が進むなどとはまるで考えていなかったのだ。
そこに今回の2ヶ月以上も悩まされた気象病である。掛かりつけのクリニックの医師にも「今回は貴方もすっかり弱ったね」と同情するように言われたし、昨日も診察の後で「年齢による衰えは抵抗できないし、トランプ大統領だって70歳を超えてあの激職になった以上、本人が否定しようと何だろうと軽度の認知症のような症状は出てきてもおかしくないのだ」と言われていた。
その先生からも「軽くなら良し」と言われて今年になってからジムにも通い始めた。だが、矢張りストレッチもきついしトラックも精々2~3周が限度だ。だが、矢張り「何時かは仮令85歳になっていても、100 mを70秒以下で歩けるようになる」と簡単に気楽に考えている。何時かは72歳まではフットサルを1時間やっても翌日に筋肉痛が出てこなかった頃の体力を取り戻せると楽観している、それが如何に間抜けでnaiveであるかに昨日辺りから漸く気付いたのだ。
だが、反省はしていない。誰か何か言うかも知れないが、楽観的であり続ける方が気楽だと思っているから。本日も買い物を兼ねて外食に出て往復約1時間ほど歩いたが、天気予報が警告したほど寒くはなかったことにも助けられて別段苦痛でもなかった。そうは言うが、正直に言えば寒さの中を出歩くのには恐怖感を禁じ得ない、またあの全身が痛くなる苦痛に襲われはしないかと。
でも、そうなったらどうしようかとは迷わない。またあのクリニックに駆け込んでブロック注射をして頂けば助かるのだと信じているから。そうとでも考えていないことには、怖くて外に出られなくなってしまう。