新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月8日 その2 5月8日の出来事

2018-05-08 16:50:39 | コラム
新宿の街は寒かったし、百人町は異邦人に占拠されていた:

10時過ぎだっただろうか、2台ある電子辞書がともに電池が切れかかっていると知らせてきた。これには弱った。電子辞書が使いないとなると、丁度更新中だったブログがお手上げになるからだ。電池は単4なので何処ででも買えるが、他にも延び延びになっていた用事があるので、未だに気象病(=自律神経失調症)を抱えた身ながら敢えて新宿駅西口に出掛ける決断をした。外は確かに天気予報通りに寒かったが、ポロのシャツの上にコットンセーター、更にその上に厚手のジャンパーで何とか防げたと思っていた。

電池はわざわざビックカメラに買いに行ったのだがその理由は簡単で、少しだけ溜めてあったポイントで何とか賄えると思ったからだ。久し振りに出掛けた西口の辺りは何時も通りの人出だったし、通り抜けただけの京王デパートの中では相変わらず方々から中国語が聞こえてきていた。12時過ぎには買い物も用事も昼食も終えてバスで大久保通りに向かったが、昨日とは打って変わった気温の変動には何とか耐え切れていたと思っている。

そこで、大久保通りに戻れば西口駅付近とは全く状態が変わっていて、我々夫婦は明らかに少数民族で、行き交う人々は皆何処の国の言葉かも解らない言語で喚いているのだ。その中でたった一人スマートフォンで韓国語の会話をしている背広姿の者が通り過ぎていったのは、寧ろ珍しいというか、懐かしささえ感じさせてくれたのも印象的だった。大久保通りではつい先日まで外国人がリサイクルショップを営んでいたところが、何時の間にかハラルフードの食料品店に変わっていたのは「またイスラム教徒の需要が増えたのか」と痛感させられた。

2~3日前だったか、我が家に最も近いところで営業しているバングラデシュ人がやっているハラルフード兼八百屋では、その彼が店を閉めずに礼拝している場面に遭遇した。その敷物が指している方角は西の方だったので、今まで意識したことなど無かったが、彼らの聖地は西の方にあるのだと知ったのだった。このバングラデシュ人は時が経つにつれて日本語が上手くなっていくのが印象的だが、英語の理解力はかなり高いようだ。

大久保通りには気が付けばネパール料理の店も増えてきたし、イスラム教徒向けの店も着実に増えている。だが、不思議な現象があって、あれほどの数の中国人の若者が動き回っている割りには中国人専用の店も出来ないし、中国料理店もほとんど見かけない。彼らは何処で何をして生活費を稼ぎ出し、食事をしているのだろうか。今日も欲しいものがあったので、何時も採り上げる業務スーパーには入ったが、そのレジに並んだ列の余りの長さに辟易となって買い物を諦めた。酷いことになってしまったと、家内と嘆き合って帰宅した。


カタカナ語が流す害毒

2018-05-08 15:06:52 | コラム
国語を破壊し英語教育を劣化させるだけだ:

私は10年前の2008年に「和製英語(=造語)とカタカナ語」と題してカタカナ語批判と非難の論文を発表していた。解りやすく言えば「カタカナ語の排斥」だった。だが、繰り返して排斥の議論を展開してきたが、効果は一向に上がらず寧ろマスコミでは競ってカタカナ語の普及に努めている有様で、誠に寒心に堪えない状況だ。彼らは我が国独特の漢字文化を破壊するだけに飽き足らず、それでなくとも欠陥だらけの英語教育まで劣化させているのだ。許しがたいことだ。

2008年には私はカタカナ語を「和製英語(=造語)」、「ローマ字式発音または恣意的な読み方」、「言葉の誤用と借用」、「合成語」のように分類して論じたのだった。だが、その後に追及すればするほお無数のカタカナ語があると知ったので、何度も各分類に追加していった。結果的には最終版では200語を超えるカタカナ語を収録できたと思っている。

念の為に、各項目から一つだけ例を挙げておくと「和製英語(=造語)」では“フリーサイズ”で、英語は one size fits all である。如何にも英語らしく出来ている造語なのが素晴らしいのだが、同時に怖くもある。「ローマ字式発音」では“ルーキー”であり、rookie という言葉は精々「ルキー」に近い発音である。言うなれば book と書いて「ブーク」と読む奴がいるかということ。

「言葉の誤用」では「リニューアルオープン」がある。英語にすれば opening after renovation くらいしか思い浮かんでこない。open は後に ing を付けないと様にならないのだ。学校で幾ら文法を教えても一向に効果が上がっていないと解るのが残念だ。「合成語」では最初に「自己ベスト」を採用したが、今では「コミュニケーションを取る」にしたい思いだ。この合成語を本当の英語にすればどうすべきかを良くお考え願いたい。

私は現在の国語教育が如何になっているかは知らない。だが、確かなことは漢字の数を制限してしまったので、その穴をカタカナ語が埋めてしまったと思わせられる言葉が極めて増えてしまったようだ。手っ取り早い例を挙げて見れば、最早「忠告」や「助言」という漢字を使った熟語が消滅し、その空白を「アドバイス」が埋めてしまったのである。同様に「トラブル」が「故障」や「事故」の意味で使われているのもカタカナ語の言葉の誤用の一例になっている。

私が思うにはカタカナ語を創造した連中は英語にも日本語の中で漢字を二文字乃至は四文字使った熟語があるのと同様に少ない文字数の熟語があるとでも思い込んだらしく、上記の忠告や助言を adviceで代用できると決めつけたのではないかと疑っている。だが、私は英語では「告知」や「通告」という意味では余り使われていないと思っている。

因みに、adviceはジーニアス英和には「・・・について・・・せよとの助言」が最初に出てくるので、告知や通告と言いたくて「アドバイス」を使うのは適切とは思わないのだ。「自己ベスト」にしたところで奇怪な使い方で「ベスト」とはそもそも good という形容詞の最上級で、名詞ではないのだから「自己最高の何であるか」まで言わないと意味を為さないと思うべきだ。あれは「自己最高記録」が正確な日本語だと思うが。

ここまで書いてくると、如何にも私はカタカナ語の揚げ足を取ろうとでもする気かと思われそうだ。念の為確認して置くが、そのような意図は全くない。兎に角「何が何でも「本当の英語ではないようなカタカナ語や間違った言葉を使っていては、何時まで経っても本当の意味での英語力は身に付かないと知るべし」と強調したいだけだ。

これまでに繰り返して言ってきたことは「カタカナ語の99.99%は誤ったというか本当の英語ではない純粋の日本語であると承知した上で使われるのであればご勝手に」だった。換言すれば「間違っても本当の英語にはカタカナ語のような使い方は無いと思うな」なのである。更により極端に言えば「カタカナ語を信じて使っているようでは何時まで経っても外国でも通用するような英語力は身に付かない」ということだ。

この私でさえ(?)、時たま「このカタカナ語は、もしかして本当の英語の中にあるのかな」と考え込まされるほど巧みに創造されている傑作があるのだ。私が思うには「そういう傑作が出来ると言うか作れる語学力は、我が国の学校教育の英語では単語の知識を重要視されているようなので、その辺りに誤りを犯すか、造語を産む根源があるのかと考えている。

20年以上もアメリカの会社で過ごし、アメリカ人の中で仕事をしてきた私がそういう単語があるとは承知していたが、自分では使った記憶も無く、また彼らが日常的に使ったのを聞いたこともないという言葉が事も無げにカタカナ語化されてテレビなどで日常的に使われているのは、驚きを超えて尊敬の念を以て聞いているほどだ。「コラボ」かコラボレーション」辺りがその典型的な例になると思う。

結論を言えば、漢字を使えなくなり、読むのに難渋する世代になってしまった以上、如何にも英語らしいカタカナ語で置き換える事は仕方がないと思うと時もある。だが、そのカタカナ語が本当の英語が意味するところとかけ離れているのは宜しくないと思う。また、今回この一文を書くに当たって考えたのだが「『コミュニケーションを取る』という合成語を外国人にも解って貰えるような英語にしたどうなるか」だった。

非常にに難しい問題だった。大体からして、私は communication 乃至は communicate という言葉を日常の業務か会話で聞いたか使った記憶が無いのだ。communicate はOxfordには to exchange information, news, ideas etc. with ~ と出てくる。故に I am going to communicate with my boss. とは言わないだろう。精々 I’m going to report to my boss. 辺りだろう。知らせるのであれば advise か inform 辺りを使うと思う。何でコミュニケーションという全体を表す単語を使い始めたのかと不思議に思うだけだ。

各テレビ局や新聞社には「カタカナ語を使って原稿を書く前に漢字を使えばどう言う熟語になるか、または如何なる分かりやすい日本語を使えば良いか」と一度立ち止まって考えて欲しいのだ。即ち、自分たちが使いたいカタカナ語は本当の英語とはかけ離れた奇妙なものであると知って欲しいのだ。そのカタカナ語は本当の英語の勉強の妨げにもなっていると知って貰いたいのだ。自分たちが害毒を流していると自覚して欲しいのだ。

私に言わせて貰えば、カタカナ語を使うのは決して格好が良いのではなく、寧ろ「おかしな事」なのであり、社会に害毒を流しているのだ。