新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月1日 その2 通訳という仕事に思う

2019-07-01 15:02:16 | コラム
最早そういう機会が来ないと思うと少し残念だ:

通訳の訓練は全く受けたことはない:

1969年頃だったと記憶するが、未だアメリカの会社に転進する前のことだった。そうなった経緯は複雑なので何れ機会があれば語るとして、ある日突然国内市場向けの営業担当だった私がUKの大手製紙会社WTのロンドンから来た研究員と我が国の情報用紙の部類に入る製品の会社の社長さんをインタビューする通訳を、私の会社の役員応接室を借りて行うことになった。自社の社員が通訳をすると聞かれた私の究極の上司である常務が「傍聴させてくれ」とばかりに入って来られた。

それまでに日常的に英語を使う生活とは16年間も離れいたのだったが、不思議なことに生まれて初めての結構難しい専門語までが出てくる通訳が出来てしまった。この日の通訳は本来はWT社の日本代表者の日系カナダ人のGN氏がやるべきだったが、ダブルブッキングがあって、突然「あんたなら出来る」と無茶苦茶を言って押しつけられたのだった。その時は夢中だったと言うよりも、何も考えずに聞こえてくる英語と日本語をそれぞれ思い浮かぶままに別の言語にしていただけだったと思う。何時始まって何時終わったかも解らない初通訳はこうして終わった。

これが切っ掛けとなったと言えば言えるが、私は1972年にGN氏の強引な推薦にあってアメリカの会社に転進して、私自身が言う「通訳もする当事者」という対日輸出単能の仕事をM社とW社とで合計22年半もすることになってアメリカの対日貿易赤字解消に大なる貢献をしてきたのだった。世が世なら、トランプ大統領に表彰されるだろう働きを全社を挙げてやっていたのだった。どうやらアメリカの会社に転進する時期を誤ったようだった。

トランプ大統領の韓国語の通訳さん他:
昨日「歴史的」なトランプ大統領の38度線越えの中継を見ていて「アレッ」と思ったことがあった。それはトランプ大統領が金正恩委員長との会談の際に常に付き添っていた小柄の通訳の女性がチャンとそばにいたことだった。金正恩委員長は前日だったかに板門店で会いたいと言っておられると知って驚いたと延べて、あの会談か面談が如何にも急に決まったかの如くに表現していたが、トランプ氏はG20では必要がないはずだったあの通訳を連れてきておられたのだ。急に決まったとしたら時差の関係もあって間に合わせることは出来なかったのではなかったか。

この件は別途触れたいと思っているが、トランプ大統領がG20の後に韓国に行かれるとの予定を公にしたということは、私には金正恩委員長との会談はフットボールの用語で言う「決め打ち」であって、偶発的ではないように思えた。

昨日のあの中継のお陰で私はの女性がトランプ大統領の言われることを韓国語に直すだけで、英語の担当ではなかったと知り得たのだった。余計なことだが、それではあの女性は韓国系アメリカ人なのだろう。なお、文在寅大統領の側にいたSPかバデイーガードにしては体格が悪いと見ていた男性が大統領の発言を英語にする通訳だった。あの通訳の英語は発音もかなりアメリカ式で、平明な言葉を使って英語にしていたのが印象的だった。一般的に韓国では国を挙げて英語教育に注力していると聞くが、彼らには英語が上手いものがおおいの配管ながら確かだ。

それに韓国の有力な企業のオウナーは先ず子弟をアメリカの留学させている。あの通訳しもそういう教育を経た一人かも知れないのかと考えていた。我らが安倍総理の通訳を務めておられる外務省の高尾氏は非常に荘厳な英語というか極めて文語調の英語にしておられるのが特徴だと思うし、文在寅大統領の通訳とは対照的だと感じた。それに発音はアメリカ留学の経験があると聞いた割りには、我が国の学校教育の英語式だった。私はこの両氏の優劣を論じているつもりはないが、対照的だったことを言ってみたかっただけだ。

何れにせよ、国家の最高指導者の地位にある方の通訳をする緊張感と精神的な負担というか疲労感は大変なものがあるだろうと思って聞いていた。私のような「通訳もする当事者」でもあれだけの緊張感を強いられたのだから、彼らのご苦労の程が解る気がする。でも、もう一度あの緊張感を味わって自己陶酔に浸って見たい気もするが、そんなことをするのは「何とか冷や水」かも知れない。


アナログ世代は奮闘した

2019-07-01 14:03:16 | コラム
私と文明の利器の関係:

携帯電話:

これは自発的に購入したのではなく、リタイア後に1997年1月から某商社を手伝うようになった時に、契約ライターの仕事をしていた紙パルプ業界に特化した出版社の契約ライターの月2回発行の業界誌に業界の評論やコラムを寄稿しながら季刊の英字誌の編集の仕事も引き受けていたので、両社との連絡を頻繁に取らねばならず、家にある固定電話では間に合わぬ事態が多発したからだった。携帯電話が欲しかった訳ではないが、必要に迫られたのだった。

当時は携帯電話は結構な投資だったので大きな負担になった。また、あの頃は住民票まで提出しないことには買えない時代で、慌ててドコモの店から区役所まで走ったものだった。

その携帯電話は20世紀最悪の開発商品などと悪口をいっていながら、そういう当人が有り難いことに仕事の為に買わねばならなくなったのも皮肉な現象だっただろうか。

パーソナルコンピュータ(PC):
物書きをやっていたこともあって以前から多くの関係者からも愚息からも方々から早く導入すべきだといわれてきたがこのリタイアした身分でそんな10数万円もする新規投資は御免だと言って拒否し続けてきた。紙パ業界専門の出版社には息子のお古のワープロで書いた原稿を、フロッピーディスクに落としてその都度自分で届けるという面倒なことをしていた。これは訪問することで、編集長にも記者たちも会えて、色々と最新の業界どころか世界の最新の情報を教えて貰えるのだった。

この出版社との契約は2000年で終わっていたが、2003年にそれまで週刊誌版のアメリカの紙パルプ業界専門の調査機関から来る海外ニュースの翻訳を引き受けておられた高齢の方が大病で緊急入院される危機が襲い、私には恩義がある編集長から「緊急事態だから今日からお助けを」と突然依頼され「それならば」と得手としてない英文和訳となる仕事を引き受けたのだった。ところが、その日にワープロが壊れたので編集長に「もう待ったなしです」とばかりにビックカメラに案内されて購入し、即日愚息が来て使えるように設定し、いきなり使い始めたのだ。

ここでも私にはPCを入れようとの意志は全くなく、偶然の積み重ねで導入せざるを得なかったのだ。丁度70歳になった年だった。編集長には膨大な?投資額は原稿料で回収出来るからと説得されたのだった。PCの使い方で緊急に教えられたことはメールの出し方とワードを使って原稿を作成し、それを添付ファイルで送るという作業だけだった。その話を長い付き合いがある大手製紙のその道に明るい方(彼も「早くPCを導入せよ」と私を説得する一人だった)には「それではPCが持つ機能の1%も活用していない」と笑われたのだった。

回顧すれば、全てが向こう側から押し寄せてきた運命と偶然に押されて、高齢者が20世紀になってIT化というかデイジタル化の時代の世界に入っていっただけのことだったようだ。