新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月3日 その2 駅ピアノ

2019-07-03 14:40:22 | コラム
あらためて知る西洋との文化の違い:

何時放映されるのか正確に知らないNHKのBSの番組に「駅ピアノ」というのがある。大袈裟に言えば西欧諸国と我が国との文化と歴史の違いをあらためて認識させてくれるので、偶々チャンネルが合えば興味深く聞いている。如何なる番組がご存じない方もおられるかと思って簡単に説明すれば「欧米の主要な鉄道の駅や空港の広場のような場所に置いてある縦型のピアノを誰でも好きなように弾いて良い」というものである。この種のピアノは私が嘗て定宿にしていたシアトルのFour Seasons Hotelの正面にある商業兼オフィスビルの1階の広いホールにも置かれていた。

そのピアノには本当に様々な人たちが来て思い思いに弾いていくのだ。私が彼我の文化圏の違いを痛感させられる点は、音楽家でも何でもない「一般人」(“ordinary person”とでも言えば良いか)が華麗にジャズを演奏したり、ある時は本当に通りがかりの人がクラシカル音楽の定番のような名曲を、または即興でその日の気分を美しいメロディーにして弾いて聞かせたり、アメリカ人ではない人がアメリカの「峠の我が家」(“Home on the range“だったか)を弾き語りするかと思えば、時には東南アジア系の人も含めて思い出深い祖国の民謡を弾いて見せたりするのだ。

これを聞いてあらためて痛感させられることは「この種の西洋音楽は彼ら欧米人の日常の生活の中に深く広く根付いていて、音楽そのものが彼らの独自の文化・文明を形成している」ということと同時に「我々のものではなかった」点である。こう言えば語弊があるかも知れないが、我が国には彼らの世界的な水準を超えたかのような優れた音楽の奏者が沢山おられるし、世界的なオーケストラの指揮者もおられるが、私にはそれは我が国の才能ある方たちが懸命に努力されて他国の文化を自己薬籠中のものにされたのだと考えている。

その辺りは産業界では嘗て我が国がアメリカを追い越してアメリカのNBCが「日本に出来て何故アメリカに出来ないのか」」という高視聴率の番組を作ったし、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と賞賛されるに至った流れにも似ているかなと考えるのだ。

私は大学在中に選択で確か「西洋文化史」という単位を取った記憶があるが、在学中もその後も全く何を勉強したかを覚えていないのだ。そして、大学卒業後17年も経ってからアメリカ人の中で仕事をするようになってから、あの科目をもっと真剣に学んでおくべきだったと後悔する局面に何度か出会ったのだった。アメリカにいてアッパーミドル乃至はそれに準ずるような人たちの家に呼ばれて家族と夕食取りながら団欒の一時を過ごすような場面になると、屡々クラシカル音楽家、(こちらから言えば)泰西名画や画家が話題に上るのだが、残念ながら素養がない私では会話の中に入っていけなくなり、惨めな思いをすることがあった。

80年代だったか、偶々何時もは意識して避けている感謝祭の時に、ご案内していたお客様の都合でサンフランシスコに滞在していたことがあった。そこで、サンフランシスコの営業所長の家に光栄にも感謝祭の一族のほぼ全員が集うパーティーに招待されたのだった。何も知らない私はnaïveにも喜んで参加したのだった。ローストターキーは聞き及んでいたように矢張りパサパサしてそれほど美味ではないとは解ったが、その夕食後が大変だった。全員が輪になって手を繋いで賛美歌を合唱する辺りまでは何とかついて行けた。そこから先が貴重な体験だった。

それは所長夫妻、双子の長男と次男、お嬢さんの全員がピアノ、トロンボーン、サキソフォーン、オルガン、ヴァイオリンを演奏してクラシカル音楽、ジャズ、アメリカ民謡等を演奏するくのだった。素晴らしい音楽会となった。それが終わると一同座り直して上記のような西洋美術や音楽が話題に上ってくるので、私にとっては余り居心地が良くなくなってきた。しかし、所長さんはサンフランシスコのキャンドルステイックパークに年間指定席を持っているような野球とフットボールファンなので、話題がそこに移った時には辛うじて参加出来たのだった。

だが、私は西洋の文化の話題に参加出来なかったことを恥じる必要はないと思っている。それは「そういうものは彼らのものであり、異文化の国から来た私が話の輪に入って行けない、何も語れないことが一大恥辱ではない」と思うようにしている。だが、洋の東西の違いを思い切り知らされたのは間違いないことだったし、貴重な経験をさせて貰えたと感謝していた。私はこれ以降「日本とアメリカの文化と思考体系の違い」と「我が国の企業社会における文化の違い」をハッキリと認識するようになって行った。

そういう懐かしい思い出までを掘り起こしてくれたのが、NHKの番組「駅ピアノ」だったのだ。

日米安全保障条約の存在を知っていますか

2019-07-03 07:58:02 | コラム
アメリカの一般人の意識:

私はトランプ大統領がこの条約の片務性を不公平だと何度か不満を述べておられたので、この際にアメリカの元上司、同僚、知人等の言わば知識階層にある数名に「日米安全保障条約の存在を知っていますか」と敢えて問い合わせてみた。

以前にも指摘したことだが、アメリカの一般人は全般的に自分が住む州内の諸々の事柄には関心があるが、国際的な面や他国のことには我が国の一般人ほど(と言うかマスコミが気を配って報じているようなとでも言えば良いか)には関心がないのだ。古い例だが、私は何度か「日本は中国の中にあるのか」と真顔で尋ねられた経験がある。そういう辺りを前提にして考えるとき、彼らが安保条約の存在を知らなかったとして驚くには当たらないと思っている。

話は本筋から少し離れるが、アメリカの会社の社員は同業他社の情報には、我が国の場合と比較すると、極めて疎いのである。意外に思われる方はおられると思うが、これは一にかかって「独占禁止法」(通称“Antitrust”(「アンタイトラスト」と発音されている)の為である。詳細は省くが、この規制がどれほど厳密かと言えば、例えば「万一同業他社の担当者と語り合うか同席する会合に出る場合には上司の許可は当然必要だが、弁護士を同席させよ」となっているし、極端に言えば何処かでcompetitorの会社の担当者と偶然出会っても握手などをしてはならない。

その場面を第三者に写真にでも撮られると、その場で値上げの談合をしたかも知れないという嫌疑がかかるのだ。こういう次第だから同業他社の株式を持つことなどが許される訳がなく、このような独禁法の規則に従わなかった事が判明した場合には「即刻馘首されても異議申し立てません」という誓約書にサインしているのだ。であるから、同業他社というか競合する相手の営業政策や品質改良の実態の調査などは困難を極めるのがアメリカだ。

彼らの物の見方が主として自州内に限られていることの一つの表れであるのが、彼らが読む新聞は(21世紀の今となっては彼らが毎日「紙」の新聞を読んでいるかどうかは疑問だが)ほとんど州内の出来事を報じているのであって、国際的なニュースはほんの一握りでしかない。読者に関心がないことは載せない方針なのだろう。その例として何時も挙げてきたことは「第一次安倍内閣の総辞職」の報道は全国紙的な USA TODAYでもベタ記事だった。アメリカ人の意識はそういう辺りにあると思って頂きたい。

現在までに私の質問に答えてくれたのはW社を早期リタイアしてコンサルタント事務所を夫妻で開設し、最終的には大学院大学教授となったシカゴのノースウエスタン大学のMBAである典型的なアッパーミドルの人物。彼はアッサリと「そういう条約があったとは知らないし、トランプ大統領が片務性を不公平だと指摘し、破棄も云々」という件は知らなかったと知らせてきた。別段驚きではなかったが、知識階級にある彼ほどのインテリが知らなかったというのは衝撃的だったが。

私はこれまでにも触れたことで、M社とW社に合計22年半も在職したが、その間に誰とも政治的なことを議論したことも触れたこともなかった。ましてやアメリカ国内には少ない得意先や、出入りされている船社等の担当者と商談の席でもこういう話題(や宗教関連の話題)を採り上げたこと事など皆無だった。これは日本の会社時代に「得意先で政治や宗教には触れるな」と厳しく戒められていたのと同じ事だと思う。

今は他に質問のメールを送った先からの返事待ちだが、果たして「承知していた」との答えが来るだろうか。

全くの余談だと思うが、先日結婚報告をした春風亭昇太がお相手は一般人ですと言った後で、「一般人って言い方は変ですね。我々がまるで特殊みたいで」と述べていた。実は私にもテレビが使いたがる「一般人」なるものの定義が解っていないのだ。