新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月4日 その2 マラソンと競歩を札幌に移転に思うこと

2019-11-04 14:29:02 | コラム
対立と論争を回避すべきではなかった:

私は今回のIOCの理不尽だったとでも言いたいこの件では、時間の経過につれて段々に腹が立ってきた。組織委員会(と東京都)はあの一方的な決定の知らせがあった直後に、反論の協議団を結成してIOCの本山に乗り込んで再考を要求すべきだったと思うのだ。それが仮令結果を出せずに終わっても「我が国の東京でマラソン競技を開催するという強固な意思は表明できた」のだと考えている。

敢えて、私流に言えばIOCの貴族気取りの集団に「日本には抵抗はさせない」と想定されたことを覆そうという、我が国の骨のある姿勢を見せておくべきではなかったのかとなるのだ。森組織委員会長の対IOCの姿勢は些か柔軟に過ぎたと思うのは僻目か。

私は早々にに抗議して反対の姿勢を示すことで何かを失ったかと言えば、失うものなどなかったと経験上も確信している。明らかに「対外国というか、IOCなる組織に恐れをなしている対外国交渉の不慣れなことを、悲しいほど表してしまった今回の札幌移転の受け入れ」だと見ている。彼らにしたところで、まさか逆襲してこないだろうと読んでコーツ調整委員長を派遣して、議論の余地無しという姿勢で来たのだろう。私がIOC一員だったら同様な姿勢に出たと思う。それが彼らの討論の姿勢である上に、IOCの権威を笠に着た驕りだと読見たいが、誤りかな。

私は組織委員会と東京都JOCも、あるいはオリンピック担当大臣も、堂々とconfrontationを恐れずにargueしてdebateすべきだったと考えている。マスメディアが報じている以外にどのような意見交換が議論があったかは知る由もないが、余りにも素直に綺麗にコーツ調整委員長の言い分を受け入れてしまったのは、返す返すも遺憾だとしか思えない。これから先に札幌で為すべき諸々の準備を考える時に、時間と資金が足りるのかどうかくらいはコーツ氏に十分に伝えてあったのだろうか。弁護士さんの彼に、組織人としての能力がどれほどあったのかとつい考えてしまう。


我が国の英語教育に思う

2019-11-04 10:14:29 | コラム
我が国の英語教育には問題が多いと思う:

ジョン・コーツIOC調整委員長の発音:

既に指摘したが、私はあのような訛りがあるのがオーストラリア(彼らの中には平気で「オーストライリア」と発音する者が多数いる)の英語の発音はおかしいという事実を、もっと国内に広く知らしめるべきだと思っている。その意図は「オーストラリアの発音を貶めようというのではなく、少なくとも英語には国によって訛りもあれば方言もあって多種多様であり、どの国のどの発音を以て正調として教えるべきかを文科省でも専門家でも考えるべきだ」ということ。

私は屡々「何とかホリデー」とかで、オーストラリアに英語の勉強に留学するという話を聞きくが、この「ホリデー」というカタカナ表記が先ず怪しいのであると言ってきた。我が国では英語教師どころか政治家や何らかの専門家の方々が崇め奉っているQueen’s Englishの総本家のUKのOXFORDでも発音記号は「ホリデー」とはなっておらず「ハラデイー」なのだ。私は「だからローマ字読みは止めろ」と長い間主張してきたのだ。勿論、オーストラリアには正調と言っても良い英語を話す人はおられると付記しておく。

だが、我が国の外国人離れした発音の教師たちに教えられた若者が、外国に出て「この発音はおかしい」と判定できるのか。出来る訳がないだろう。それのみならず、我が国の教育では「隠語、符丁」を意味する“slang”と、それを使うだけで非知識階級と看做される「汚い言葉」である“swearword”の存在すら教えていないのだ。外国人たちが話す言葉から、その階層乃至は教養の程度を判定することなど出来ないだろうから、おかしな英語を学んでしまう危険性すらあると言いたいのだ。その辺りをコーツ氏は「ライス・ウオーキング」で示してくれたと思っている。

オーストラリアの英語を擁護する訳ではないが、我が事業部のニュージーランド人(OxfordのMBAという教養人だった)のマネージャーのオーストラリア人の奥方は実に美しいQueen’s Englishで話されて、その夫妻と会食する度にウットリとして聞いていたものだった。先ほども指摘したように、同じ国の中でも使う英語は千差万別で、何処の国でもある下位層以下になると乱れてしまうし、オーストラリアにけば“Good day, mate.”が「グッド・ダイ・マイト」になるし、ロンドン出身のサッカー選手のDavid Beckhamは「ダイヴィッド・ベッカム」と名乗るのだ。

また、嘗て、W社の中央研究所にいたニュージーランド人のPh.D.は“basis weight”を「バイシス・ウワイト」と発音して、一瞬私を戸惑わせた。必ずしも“a“だけが「アイ」となるのではないのだ。だが、そこは流石に博士号の所有者で、直ちに「ベイシス・ウエイト」と言い直してくれたが、アメリカ、UK、オーストラリア、ニュージーランドでは、かくも発音にバラツキがあるのだ。「そういう違いをを知らない人たちが小学校から英語を教えてどうするか」というのが、私が危惧するところなのだ

だからこそ、native speakerに教えて貰おうと考えるのは好ましくないと指摘して来たのだ。翻って「もしも、貴方が明日から外国人に日本語を教える」という職に誘われたとして「造作もないことと」と言ってその場で受ける自信がおありかということだ。私ならば絶対受けないがね。

大学入試に民間の試験を採用する:
私は正直に言えば「勝手にやれば良いだろう。何れにせよ、実用性に乏しい我が国の英語教育を集大成の度合いを測る為のテストだから、それなりに意義はあるだろう」との程度に考えていた。我が国の英語教育が「国際的に通用するような人財と外国語力を養成しようという」との目的の為にあるのであれば、全く間違っているので、掲げられ諸々のテストは飽くまでテストの為のテストであって、精々「通じた」か「通じる」事の度合いを測る為の程度の効果しかないと看做してきた。そういうものだということは、20年以上の我が国との交渉の席で十分に解っていた。

文科省か何処か知らないが、あのような方式を編み出したからには、大学の方でも正確に受験生の英語(Englishではない「科学としての英語」の力)の出来具合を試す試験問題を作るのに困っておられるのかとすら疑っていた。経験上も言えるのだが、最も英語がどれほど解っているかがハッキリと出るのは、英作文と英語で話せるかどうかに現れると見ている。「話す能力」とは英語にすれば“How to express oneself in English”とでも言えば良いだろうが、“I can speak English.”の域を何処まで脱しているかだ。即ち、「英語で自分の考えを十分に表現できるか出来るか否か」である。

だが、受験生を一人ひとりこういう試験をするのは物理的にも不可能だろうから、何らかの試験は必要だとは思う。だからと言って、民間の試験に丸投げするもは不公平だろう。また資金を投じてそのテスト為の勉強をさせるのもまた奇妙なことだ。私は「科学としての英語」を教えて、その結果を数学の試験のように判定して優劣を付ける方式が愚かであり、早く改革すべきだと指摘し続けて来た。

私は誰に言うべきか知らないが、昭和20年に中学に入るまで英語など見たことも聞いたこともなかった私が、音読・暗記・暗唱一本でアメリカ人の世界に入っても苦労しなかったのである。勿論、その陰にはGHQの秘書の方に「英語だけで考えなさい。日本語にしようなどとは思ってはいけません」と仕込まれたことの恩恵と効果はあったが、学校の教育だけでは外国人に通用しない英語しか教えられない教育法を、文科省も専門家も本気で考え直すべきではないのかな。民間の試験に丸投げを中止したのは、“Better late than never”程度の評価はする。