ローマ教皇の来日の機会に回顧すれば:
既に指摘したことだが、教皇の来日を信者なのか一般人なのか知る由もないが、あれほど多くの人が集まって歓迎したのには、私は寧ろ違和感にとらわれて見ていた。キリスト教国でもない我が国で何の為にあれほど教皇が移動される度に大騒ぎをしてスマートフォンで写真を撮りまくるのかと、あの光景は異常だと感じていた。また、如何なるメディアも「カトリックとは」といったような解説もせず、付和雷同的な報道をしていたのも軽佻浮薄だと思って眺めていた。そこで、私が経験した限りのイエズス会(「キリスト教でも良いか?」の大学での経験を回顧してみよう。
私は愚かにも1951年に何も知らずに上智大学(Sophia University)に進学したのだが、そこで身を以て体験したことはといえ、ばカトリックのイエズス会の神父様であり教授たちの想像もしていなかった規律の厳格さだった。唯々驚くだけだった。先ずは通学には制服と制帽着用のことと就学規則に定められており、毎朝校門に教授(=神父様)たちが立って見張っておられた。その規則の違反者はその場で学生証を没収され、会計課に行って罰金50円だったかを納めて返して貰う規則になっていた。その他にも喫煙には厳しい規則があり、教室内は厳禁で見つかれば学生証取り上げだった。
当時は教授陣にはドイツを主体にしたヨーロッパ人の神父様が多く、英語での講義も多かった。その為に英語を聞くのに慣れていなかった地方から来た学生は苦しめられたいた。また、ヨーロッパ人の教授たちはKing’s Englishの発音だったので、American English系の発音で読んだり話したりすると「下品だ」と叱られることがあった。ところが、アメリカ人の教授にはKing’s Englishにすると「古い」と直される事もあったので、発音には注意しなければならないのだった。ではあっても、両方の英語の相違点を学べたことになったのは幸運か。
特に脅威を感じたのが膨大な量の宿題だった。それは教室にガラガラと音を立てて教務課の担当者が分厚い原書を山積みにしたカートを運んできて全員に配り、教授から「この本を来週までに読んで、感想文を提出せ」と言われるか「何ページから何ページまでを読んで概要を纏めたレポートを提出せよ」と命じられるのだ。その重さと厚さから「到底出来る訳がない無理な話だ」と誰しもが思う。だが、要点は「感想文かレポートを出したか否か」が問題であって、1週間内に出来る訳がないと提出しないと、この面では「0点」の評価となり、落第への一里塚となるのだ。それを知らずに提出しなかった者は馴れるまでは多かった。
この点に関しては40歳を過ぎてからハーバード大学のビジネススクールに進学した畏友YM氏にも尋ねてみた。彼もハーバードに来るようなアメリカ人たちにもこのような無理筋の宿題が課されると、院生たちは何名かが組んで適当にページ数を割り当てて分担し、出来上がったものを纏めて一本のレポートに編集して切り抜けていたと聞いた。要するに、アメリカやヨーロッパの大学や大学院では膨大な量の宿題が出るのは普通のことであり、それをやり遂げたかどうかが評価の対象になるので、不参加では「0点」なってしまうという教訓でもある。この辺りは我が国の勉強との相違点ではないだろうか。
また、当時の上智大学の規則では授業には出席するのは当然であり、もしも欠席が1/3を超えると試験を受ける資格を失うと定められていた。特に1年生の場合は必須科目である宗教学や哲学を落とすと有無を言わせず落第と定められていた。中にその厳格さの為か落第した者は非常に多く、また規則の厳しさに耐えきれずに止めていった者もいた。我々の学年では300人入学して卒業できたのは180名という状態だった。尤も、神父様たちはこの厳格さは当然と思っておられたようだ。換言すれば「入学は出来ても、卒業は難しい」大学だったということ。
ここで再びYM氏の話に戻れば「スタンフォード大学でも何処でも、アメリカの大学院では、教授の評価の点数、出席点、レポートの点、試験の成績、講義の中での討論の発言の点等々を各教授が学務課とでもいう担当部署に何の感情も交えずありのまま提出し、それを何の手も加えずに算術平均して成績を出すのだそうだ。故に、レポートを提出したかしなかった等々は成績に大きく影響することになる」のだそうだ。即ち、自分から高額な授業料を払って入学した大学や大学院で、授業をサボることなどあり得ないという意味であるようだ。
このようにアメリカの大学の規則の厳格さの実態を知って解ったことは、ヨーロッパとアメリかでは「大学で学ぶということは、このようにキチンと規律正しい姿勢でなければならない」ということだった。その点をマスコミが同じイエズス会の「フォーダム大学に留学された小室圭氏の勉強や宿題や予習・復習で大変だ」などとさも驚いたような報道をしているのを見てチャンチャラおかしいと笑わせられた。「そのことくらい心得て報道せよ」と言いたいのだ。私の得意の表現を用いれば「これぞ、我が国との文化の違いである」となる。彼らの厳格さは何もカトリックの会が運営する大学だからではないと思う。
私はこの上記のような点から見れば、不真面目な学生だった。即ち、良い(悪い?)仲間に恵まれて当時の上智大学では少数派になる麻雀ばかりやっていた。それだけではなく、アルバイトで学費を稼いでいたし、サッカー部を背負って立っていた(?)有力な部員だった事であり、非常に多忙な大学生だった。それ故に、神父様たちとの接触は最低限だったと思う。それでも、何とか無事に規定の単位を取得して卒業できた。上記のようなカトリックの厳格な規律の下で4年間を過ごして「文化の違い」を学習できたことが、39歳にしてアメリカの会社に転進しても、それほど異文化に強烈に面食らわずに済んだと思っている。
現在の上智大学には往年のような厳しさはなく、教授陣も神父様が少なくなったと仄聞している。そのような変化が良かったのかどうかなど知る由もないが、最早私が入学した頃のように上智大学生と知るや「矢張り、お経などは唱えるのですか」などと尋ねられることはないだろう程の、有名な存在になったのは誠に結構な事であると思う。その人気たるや、英文学科などは入学試験の点数だけで合否の判定すれば、女子だけしかいなくなってしまうとの話も聞いたことがあった。矢張り、時代が変わったのだろう。
既に指摘したことだが、教皇の来日を信者なのか一般人なのか知る由もないが、あれほど多くの人が集まって歓迎したのには、私は寧ろ違和感にとらわれて見ていた。キリスト教国でもない我が国で何の為にあれほど教皇が移動される度に大騒ぎをしてスマートフォンで写真を撮りまくるのかと、あの光景は異常だと感じていた。また、如何なるメディアも「カトリックとは」といったような解説もせず、付和雷同的な報道をしていたのも軽佻浮薄だと思って眺めていた。そこで、私が経験した限りのイエズス会(「キリスト教でも良いか?」の大学での経験を回顧してみよう。
私は愚かにも1951年に何も知らずに上智大学(Sophia University)に進学したのだが、そこで身を以て体験したことはといえ、ばカトリックのイエズス会の神父様であり教授たちの想像もしていなかった規律の厳格さだった。唯々驚くだけだった。先ずは通学には制服と制帽着用のことと就学規則に定められており、毎朝校門に教授(=神父様)たちが立って見張っておられた。その規則の違反者はその場で学生証を没収され、会計課に行って罰金50円だったかを納めて返して貰う規則になっていた。その他にも喫煙には厳しい規則があり、教室内は厳禁で見つかれば学生証取り上げだった。
当時は教授陣にはドイツを主体にしたヨーロッパ人の神父様が多く、英語での講義も多かった。その為に英語を聞くのに慣れていなかった地方から来た学生は苦しめられたいた。また、ヨーロッパ人の教授たちはKing’s Englishの発音だったので、American English系の発音で読んだり話したりすると「下品だ」と叱られることがあった。ところが、アメリカ人の教授にはKing’s Englishにすると「古い」と直される事もあったので、発音には注意しなければならないのだった。ではあっても、両方の英語の相違点を学べたことになったのは幸運か。
特に脅威を感じたのが膨大な量の宿題だった。それは教室にガラガラと音を立てて教務課の担当者が分厚い原書を山積みにしたカートを運んできて全員に配り、教授から「この本を来週までに読んで、感想文を提出せ」と言われるか「何ページから何ページまでを読んで概要を纏めたレポートを提出せよ」と命じられるのだ。その重さと厚さから「到底出来る訳がない無理な話だ」と誰しもが思う。だが、要点は「感想文かレポートを出したか否か」が問題であって、1週間内に出来る訳がないと提出しないと、この面では「0点」の評価となり、落第への一里塚となるのだ。それを知らずに提出しなかった者は馴れるまでは多かった。
この点に関しては40歳を過ぎてからハーバード大学のビジネススクールに進学した畏友YM氏にも尋ねてみた。彼もハーバードに来るようなアメリカ人たちにもこのような無理筋の宿題が課されると、院生たちは何名かが組んで適当にページ数を割り当てて分担し、出来上がったものを纏めて一本のレポートに編集して切り抜けていたと聞いた。要するに、アメリカやヨーロッパの大学や大学院では膨大な量の宿題が出るのは普通のことであり、それをやり遂げたかどうかが評価の対象になるので、不参加では「0点」なってしまうという教訓でもある。この辺りは我が国の勉強との相違点ではないだろうか。
また、当時の上智大学の規則では授業には出席するのは当然であり、もしも欠席が1/3を超えると試験を受ける資格を失うと定められていた。特に1年生の場合は必須科目である宗教学や哲学を落とすと有無を言わせず落第と定められていた。中にその厳格さの為か落第した者は非常に多く、また規則の厳しさに耐えきれずに止めていった者もいた。我々の学年では300人入学して卒業できたのは180名という状態だった。尤も、神父様たちはこの厳格さは当然と思っておられたようだ。換言すれば「入学は出来ても、卒業は難しい」大学だったということ。
ここで再びYM氏の話に戻れば「スタンフォード大学でも何処でも、アメリカの大学院では、教授の評価の点数、出席点、レポートの点、試験の成績、講義の中での討論の発言の点等々を各教授が学務課とでもいう担当部署に何の感情も交えずありのまま提出し、それを何の手も加えずに算術平均して成績を出すのだそうだ。故に、レポートを提出したかしなかった等々は成績に大きく影響することになる」のだそうだ。即ち、自分から高額な授業料を払って入学した大学や大学院で、授業をサボることなどあり得ないという意味であるようだ。
このようにアメリカの大学の規則の厳格さの実態を知って解ったことは、ヨーロッパとアメリかでは「大学で学ぶということは、このようにキチンと規律正しい姿勢でなければならない」ということだった。その点をマスコミが同じイエズス会の「フォーダム大学に留学された小室圭氏の勉強や宿題や予習・復習で大変だ」などとさも驚いたような報道をしているのを見てチャンチャラおかしいと笑わせられた。「そのことくらい心得て報道せよ」と言いたいのだ。私の得意の表現を用いれば「これぞ、我が国との文化の違いである」となる。彼らの厳格さは何もカトリックの会が運営する大学だからではないと思う。
私はこの上記のような点から見れば、不真面目な学生だった。即ち、良い(悪い?)仲間に恵まれて当時の上智大学では少数派になる麻雀ばかりやっていた。それだけではなく、アルバイトで学費を稼いでいたし、サッカー部を背負って立っていた(?)有力な部員だった事であり、非常に多忙な大学生だった。それ故に、神父様たちとの接触は最低限だったと思う。それでも、何とか無事に規定の単位を取得して卒業できた。上記のようなカトリックの厳格な規律の下で4年間を過ごして「文化の違い」を学習できたことが、39歳にしてアメリカの会社に転進しても、それほど異文化に強烈に面食らわずに済んだと思っている。
現在の上智大学には往年のような厳しさはなく、教授陣も神父様が少なくなったと仄聞している。そのような変化が良かったのかどうかなど知る由もないが、最早私が入学した頃のように上智大学生と知るや「矢張り、お経などは唱えるのですか」などと尋ねられることはないだろう程の、有名な存在になったのは誠に結構な事であると思う。その人気たるや、英文学科などは入学試験の点数だけで合否の判定すれば、女子だけしかいなくなってしまうとの話も聞いたことがあった。矢張り、時代が変わったのだろう。