新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月25日 その4 当事者であるかないか:

2019-11-25 16:35:59 | コラム
メデイアやジャーナリストは当事者か:

この点で、本25日の日テレの「ミヤネ屋」は非常に興味深い論議が展開されていた。そこには、この度の韓国のGSOMIA失効停止の延期と貿易管理手続きの変更について、武藤元駐韓大使、細川中部大学特任教授、前嶋上智大学教授と中継が繋がれていた。宮根は官邸駐在記者から現状の報告を聞いた後でゲストに意見を求める形で進行した。宮根はその中で木村太郎氏の意見を引用したところ、細川教授に「邪推である」と一蹴されてしまって慌てふためいたのだった。

そこで私の興味を惹いた点は「木村氏を始めとするジャーナリストというかテレビ局がいう専門家たちは、先日私が引用した英語の表現である“They are not making the things happening.”派であって、如何に豊富な情報量を持っておられても事を起こした当事者ではなく、出来事を報じる意味での専門家である」だった。換言すれば、細川教授は通産省勤務の頃には自ら外国と貿易等の交渉の実務を担当された当事者であり、出来事の実体を誰よりも正確にご存じな方であるということだ。

当事者という意味では武藤元駐韓大使も同じであろう。と言うことは「お手持ちの情報量の大きさの問題ではなく、“We are making the things happening.”の側におられたという意味だ。その意味では細川教授は遠慮会釈なく前嶋教授の意見もアッサリと否定されたのだった。私も前嶋教授はアメリカに情報源を持っておられる有力な情報通であるとは思うが、残念ながら“He is not making the things happening.”であると看做している。言いたいことは「当事者と、その出来事を見て伝えるメディアとは如何に専門家であっても、性質が異なる」という点だ。

より解りやすくしたつもりで言えば「出来事の実態は、それを担当した当事者でなければ解らない面が多々ある」ということなのだ。そういう意味では、私は在職中に業界の専門誌に時事問題について頻繁に匿名で投稿していた。それは「現実に実務を担当している者の視点から見て論じるのが最も(?)適切であって、第三者が出来事を見て聞いて、調査して、これまでの知識の蓄積に基づいて判断して伝えるのよりも現実味があって説得力があって、自ずと質が異なる」と信じていたからだった。

細川教授は韓国側から今になって出てきた「日本側が事実を歪曲して発表した。経産省から謝罪があった」との発表は飽くまでも国内向けに局面を糊塗する為の言辞であって真実ではない。貿易管理手続きの変更は協議する性質ではなく、今回経産省が発表したのは対話をするという意味である」と、先日Prime Newsで佐藤前外務副大臣が指摘された内容と同じ事を語っておられた。敢えて述べておけば、テレビで語られる内容でも「当事者」と「報道する側」では内容も質も異なってくるものなのであると認識しておく方が無難だという事。


11月25日 その3 スマートフォンは21世紀最悪の開発商品か

2019-11-25 13:28:43 | コラム
携帯電話は20世紀最悪の開発商品:

私は20世紀中に携帯電話をこのように悪し様に言って「文明の利器を何故に悪く言うか」とネット上で叱られたことがあった。当時のそう言う根拠は「年端の行かぬ子供たちにまで持たせる甘い親が多くいるので、一家の可処分所得が携帯電話代に回っていってしまったので、内需が盛り上がらない原因の一つになっているではないか」という点だった。これ即ち、「便利さの裏側に何が待っていたか」を言いたかったので、「コインの裏側を見よ」ということだった。今回は「スマートフォンは21世紀最悪の開発商品か」を考えて見ようと思う。

そこに、今回は小学校6年生の女児がスマートフォンを使いこなしてSNSとやらで大人と交流したが為に、「未成年誘拐」(この件は矢張り誘拐となるのだそうだ)という犯罪に巻き込まれてしまったのだ。矢張り「コインの裏側」が「これでもか」というほど出てきたのではないか。恥ずかしくないが、私はこの老い先短い年齢になって今更スマートフォンを必要としない人生だと思っているが、子供たちにとってはそうとは行かないのだろうし、親御さんたちも持たせないように抑えきれないようだ。

先ほどフジテレビのバイキングとやらを見ていたら、「小学校6年の児童の何パーセントがスマートフォンを持っていると思うか」との問い掛けがあった。私は少なくとも50%はあると思っていたところ、正解は何と57.8%だった。私はこの高い比率について意見はないというか「時代の流れとはこういうものか」と感じただけだった。そこに東国原英夫が「児童・生徒たちがスマートフォンを使っている時間の長さと学業成績は完全に反比例している」と指摘していたのも印象的だった。私は持たせるべきか否かは微妙な問題だろうなと思う。

コインの両面は慎重に検討すべきだと思う点が多々ある。だが、私は子供というか小学校の児童に持たせるのは控えた方が良いと思う。それは、世の中には彼らが想像できないような悪い大人がいるからである。と言うことは、最初に携帯電話をこの世に送り込んだGAFAの誰かが悪いのだということにもなる。だが、スマートフォンを最悪の開発商品にするかしないかの鍵を握っているのは「親御さんたちの見識」ではないのか。


11月25日 その2 ローマ教皇が来日された

2019-11-25 08:24:21 | コラム
カトリックを考える:

私は深い知識がないままに、1951年にカトリックのイエズス会が運営する上智大学に入学した。その当時でも今でも上智大学はミッションスクールだと思われているようだ。だが、私は未だにそうではないと思っている。確かに、校舎の隣にかのイグナチオ教会が聳え立っているし、当時は教授陣は圧倒的に外国人の神父様たちだった。宗教学は必須科目だったが、4年間に一度もキリスト教の教えを強制されたこともなく、イグナチオ教会にも入学した時に一度入っただけに終わっていた。

念の為に調べてみると「ミッションスクール」は私が言う「カタカナ語」であり、英語では“missionary school”か“Christian school”と言うようである。それに、私はキリスト教の信者ではないが、冗談では「キリスト教のシンパである」などとは言ったことはあった程度で、教義にも暗いのだ。故に、ローマ教皇(つい先頃までローマ法王と呼ばれていた)についてはほとんど知識もなく、バチカン市国におられるカトリックの最高権威者かと認識していただけ。

しかし、1999年に初めてイタリアに出掛けてバチカン市国(Status Civitatis Vaticanae)を訪れて、サンピエトロ大聖堂の中に一歩足を踏み入れた途端にその何とも言えない荘厳さに圧倒された。それはヨーロッパの国を歩けばカトリックが如何に強力というか権威があるかはイヤと言うほど解る。大きな教会の中に入ればその凄さには大いなる感銘を覚えた。だが、サンピエトロ大聖堂の荘厳さは全く別物だった。信者でもない私は、気が付けば涙が止まらないほど感動していた。何故感動したかは説明できないが、圧倒された。ただ単に観光で訪れるべき場所ではなかったと痛感した経験だった。

私はカトリックはヨーロッパの文化と文明の象徴であり、ヨーロッパの人たちの精神構造を形成していると思っているのだが、その考え方が正解かどうかは解らない。ローマ教皇は核兵器の廃絶を熱心に説いておられるが、その効果が遍く発揮されれば良いのだがと思っている。


矢張り韓国は韓国だった

2019-11-25 07:46:48 | コラム
韓国は開き直ってきた:

韓国政府はまさかと思わせられたGSOMIAの失効の一時停止とWTOへの提訴の中断等を発表したが、昨24日には何と「日本は韓国の発表を歪曲した」と大統領府が抗議した。しかも、経産省は謝罪したとまで言うのだった。「なるほど、そう来るか」と思わせられた。私も発表を聞いた直後に少しは「このまま韓国が黙っているのかな」とは瞬間的に閃いたが、まさか居直ってくるとまでは考えられず、その可能性まで言及することはしなかった。だが、矢張りやって来た。

この辺りが韓国の韓国たる所以で、これまでに彼らが何度我が国との協定と合意や、揉め事や、対話乃至は会談の内容を実際にあった通りに発表しなかったことが何度あったか。彼らは常に虚言を弄して事実をねじ曲げていたではないか。その実績を綺麗に忘れ去ってと言うか頬被りして、今回は我が国の発表内容に異議を申し立ててきたのである。誠に恐れ入ったことだが、あらん限りの善意を込めて解釈すれば、国際的な交渉事ではこれくらいの図々しさが必要なのかも知れないという辺りになるか。思うに、国内向けに彼らの立場を弁明したかったのだろう。

私なりに強いて言えば、マスメディアの報道振りには「我が方が全面的に圧勝した。韓国はアメリカの圧力に屈した」というような形で、韓国の態度が変わった点を強調しすぎたかなと思わせる点がなきにしもあらずだった。その辺りが彼らの神経を逆撫でしたのかなと思って、あの「日本政府が歪曲して発表した」との非難声明を出させたのかと思って聞いた。何れにせよ、一筋縄ではいかないやりにくい相手である。