矢張りカタカナ語排斥論になるか:
先ずは「日本語の発想で英語の表現の仕方を考えるとか、軽々しくカタカナ語化しない方が良い」と強く述べることから始めたい。理解して下さるか、賛成して下さる方は少ないかと危惧するが、主張したいことを述べていこうと思う。
昨6日「私は単語を重要視しなかった勉強の仕方だった」と回顧した。だから、「あらためて realだの imageのような簡単な単語の意味を、初めて辞書を引いて調べた」と敢えて述べたのだった。この意味は、それらの単語の意味を知らなかったというのではなく、自分の知識を確認する為の作業だったのだ。
私はこれまでに何度も何度も「英語の単語の意味する所をバラバラに記憶するのではなく、文章の流れの中で、どのような意味で使われているかを覚えておくべきだ。例えて言えば、数万個もあると言われている自動車の部品をバラバラに並べただけでは車になるまい。それぞれの部品を何処でどのように組み合わせるかが肝腎だ。英語でも紺点が重要だ」と唱えてきた。
その流れを覚えておく為には「教科書の音読・暗記・暗唱が最も確実な勉強法である。即ち、単語が流れの中でどのように使われているかを学び取る事が必要」であるのだ。慣用句のように流れの中では単語の元の意味とは違う表現になるので、単語をバラバラに覚えておいても役に立たないのだと言いたいのだ。一寸捻った表現を例に挙げれば、“after us the deluge“なんて言うのがある。ここでは“deluge”を「大洪水」だと知っていても役に立たないのだ。それは日本語にすれば「後は野となれ山となれ」の意味なのだから。
事の序でに似たような例も挙げておくと、“come hell or high water“というのがある。「何事があろうとも」という意味で使われているのだ。私が日系人のJ氏に教えられた表現に“disregarding whatever criticism to be directed upon ~“というのがあった。これは「形振り構わず」を彼がその場で英語にしてくれたもの。それぞれの単語の意味を知っていても「形振り構わず」にはならないと思う。だから、「流れの中でその単語の使い方を覚えましょう」というのだ。恥ずかしながら、“Let’s play it by ear.”と言われた時には「キョトン」としている以外なかった。
私はある程度の表現力と単語の知識(語彙)があると思ってアメリカ人の中に入っていった。だが、現実には慣用句や口語体の表現が多い世界に入って行ってしまったので、「なるほど、こういう時にはこう言えば良いのか」と、彼らの真似をするのに精一杯でだった。但し、私は外国人であるから、恥ずかしくも何とも思わずに“It does not ring my bell“と言われた時には「何の事」と尋ねた。「それは思い当たらないな」か「それでは思い出せないな」という意味だと聞かされては「この儘覚えておくしかない」と思った。
このような相互の発想の違いを知らないと、というか「日本語と英語では発想が違うのだ」という肝腎の事を教えておかないから、奇妙なカタカナ語がで生まれてくるのだと、私は確信している。例えば「日本語の漢字の熟語で表現されているのと同じような熟語が英語にもある」と錯覚しているから「コラボ」のような「共同作業」を意味するようなカタカナ語を、私が日常の業務の中で使われた事を思い出せないような“collaborate“のような固い言葉を、カタカナ語化してしまうのだと見ている。私には“to work together with だれそれ”しか思い浮かばなかったが。
昨日も採り上げた“message”などは矢張り誰かがカタカナ語のような意味で使ったのを聞いた記憶がない。勿論、自分でも使った事など思い出せない。「彼の発信したメッセージは」と言われた時には英語にしてみれば“He tried to mean ~”か、“The way I understand his comment was like this.”とでもなるかと考えている。英語の発想には「物事を直接に表現する」しかなく「何かを言うから、それをこちらの意図を察して理解して欲しい」のような考え方はないのだ。良く言われた事は「彼らは行間や紙の裏等を読む事はしない」のである。彼らには言いたい事はズバリと言うだけ。
このような発想と思考体系の違いを弁えていないと言うか、違いをキチンと学校教育で教えていないから、日本語の漢字の熟語を「コラボ」のようにカタカナ語で置き換えてしまう事になってしまうのだ。「劣等感」のように“inferiority complex”を、何故かそんな意味がないcomplexだけを採って「コンプレックス」即ち「劣等感」にしてしまった悪い例もある。私が不思議でならないのが「誰もcomplexの意味を調べた事ない様子」なのだ。
「タッグを組む」も情けない事で、英語は“tag team”なのだ。何度も指摘した事で tagとは名詞ならば「下げ札」か「荷札」で、動詞にすれば「付ける」というような意味だ。元はプロレスリングのタッグマッチで「2人が組んで試合をすること」だった。野球の「タッチアウト」は英語では“tagged out”で「タッチアウト」ではないのだ。何れも、英語を誤ってカタカナ語化して日本語にしてはならないという悪い例だ。
何となく纏まりがない論調になったかと危惧するが、強調したいことは「単語をバラバラに覚えるのではなく、飽くまでも文章の流れの中での使い方を学ぶこと」、「英語の勉強法には飽くまでも音読・暗記・暗唱を推薦する」と「日本語の発想で英語を考えるとか、カタカナ語化してはならない」なのである。余所の國の言語は、日本語とは違うことを忘れないようにと改めて指摘しておく。
先ずは「日本語の発想で英語の表現の仕方を考えるとか、軽々しくカタカナ語化しない方が良い」と強く述べることから始めたい。理解して下さるか、賛成して下さる方は少ないかと危惧するが、主張したいことを述べていこうと思う。
昨6日「私は単語を重要視しなかった勉強の仕方だった」と回顧した。だから、「あらためて realだの imageのような簡単な単語の意味を、初めて辞書を引いて調べた」と敢えて述べたのだった。この意味は、それらの単語の意味を知らなかったというのではなく、自分の知識を確認する為の作業だったのだ。
私はこれまでに何度も何度も「英語の単語の意味する所をバラバラに記憶するのではなく、文章の流れの中で、どのような意味で使われているかを覚えておくべきだ。例えて言えば、数万個もあると言われている自動車の部品をバラバラに並べただけでは車になるまい。それぞれの部品を何処でどのように組み合わせるかが肝腎だ。英語でも紺点が重要だ」と唱えてきた。
その流れを覚えておく為には「教科書の音読・暗記・暗唱が最も確実な勉強法である。即ち、単語が流れの中でどのように使われているかを学び取る事が必要」であるのだ。慣用句のように流れの中では単語の元の意味とは違う表現になるので、単語をバラバラに覚えておいても役に立たないのだと言いたいのだ。一寸捻った表現を例に挙げれば、“after us the deluge“なんて言うのがある。ここでは“deluge”を「大洪水」だと知っていても役に立たないのだ。それは日本語にすれば「後は野となれ山となれ」の意味なのだから。
事の序でに似たような例も挙げておくと、“come hell or high water“というのがある。「何事があろうとも」という意味で使われているのだ。私が日系人のJ氏に教えられた表現に“disregarding whatever criticism to be directed upon ~“というのがあった。これは「形振り構わず」を彼がその場で英語にしてくれたもの。それぞれの単語の意味を知っていても「形振り構わず」にはならないと思う。だから、「流れの中でその単語の使い方を覚えましょう」というのだ。恥ずかしながら、“Let’s play it by ear.”と言われた時には「キョトン」としている以外なかった。
私はある程度の表現力と単語の知識(語彙)があると思ってアメリカ人の中に入っていった。だが、現実には慣用句や口語体の表現が多い世界に入って行ってしまったので、「なるほど、こういう時にはこう言えば良いのか」と、彼らの真似をするのに精一杯でだった。但し、私は外国人であるから、恥ずかしくも何とも思わずに“It does not ring my bell“と言われた時には「何の事」と尋ねた。「それは思い当たらないな」か「それでは思い出せないな」という意味だと聞かされては「この儘覚えておくしかない」と思った。
このような相互の発想の違いを知らないと、というか「日本語と英語では発想が違うのだ」という肝腎の事を教えておかないから、奇妙なカタカナ語がで生まれてくるのだと、私は確信している。例えば「日本語の漢字の熟語で表現されているのと同じような熟語が英語にもある」と錯覚しているから「コラボ」のような「共同作業」を意味するようなカタカナ語を、私が日常の業務の中で使われた事を思い出せないような“collaborate“のような固い言葉を、カタカナ語化してしまうのだと見ている。私には“to work together with だれそれ”しか思い浮かばなかったが。
昨日も採り上げた“message”などは矢張り誰かがカタカナ語のような意味で使ったのを聞いた記憶がない。勿論、自分でも使った事など思い出せない。「彼の発信したメッセージは」と言われた時には英語にしてみれば“He tried to mean ~”か、“The way I understand his comment was like this.”とでもなるかと考えている。英語の発想には「物事を直接に表現する」しかなく「何かを言うから、それをこちらの意図を察して理解して欲しい」のような考え方はないのだ。良く言われた事は「彼らは行間や紙の裏等を読む事はしない」のである。彼らには言いたい事はズバリと言うだけ。
このような発想と思考体系の違いを弁えていないと言うか、違いをキチンと学校教育で教えていないから、日本語の漢字の熟語を「コラボ」のようにカタカナ語で置き換えてしまう事になってしまうのだ。「劣等感」のように“inferiority complex”を、何故かそんな意味がないcomplexだけを採って「コンプレックス」即ち「劣等感」にしてしまった悪い例もある。私が不思議でならないのが「誰もcomplexの意味を調べた事ない様子」なのだ。
「タッグを組む」も情けない事で、英語は“tag team”なのだ。何度も指摘した事で tagとは名詞ならば「下げ札」か「荷札」で、動詞にすれば「付ける」というような意味だ。元はプロレスリングのタッグマッチで「2人が組んで試合をすること」だった。野球の「タッチアウト」は英語では“tagged out”で「タッチアウト」ではないのだ。何れも、英語を誤ってカタカナ語化して日本語にしてはならないという悪い例だ。
何となく纏まりがない論調になったかと危惧するが、強調したいことは「単語をバラバラに覚えるのではなく、飽くまでも文章の流れの中での使い方を学ぶこと」、「英語の勉強法には飽くまでも音読・暗記・暗唱を推薦する」と「日本語の発想で英語を考えるとか、カタカナ語化してはならない」なのである。余所の國の言語は、日本語とは違うことを忘れないようにと改めて指摘しておく。