新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月27日 その3 アメリカのお直し代は

2021-04-27 16:37:06 | コラム
シアトル市ではお直し代は無料だった:

先ほど採り上げたブルックスブラザーズでもバーバリーでも、1990年代は袖丈やズボンの裾上げ等のお直し代は無料だったし、ホテルへの配達も同様でした。直しを担当するテイラーは白人だったのです。

以上、ご参考までに。

4月27日 その2 24~26 cmの靴下を求めて

2021-04-27 09:33:31 | コラム
小足と小柄の悩み:

去る24日に地蔵通りの洋品店「マルジ」に探しに行った品物(最近常用されているカタカナ語では「アイテム」になってしまったが)の一つが、掲題の小さい靴下だった。私の足は靴でも靴下でもメーカーによって変わるが、23.5~24 cmが丁度良い大きさなのだ。ここに私の悩みがあって、近年は我が同胞の体格が著しく向上した結果で、靴下では25~27 cmが標準となってしまったようで、ユニクロでもドンキホーテでも無印良品でも、24 cmはお呼びではないのである。靴でも、24.5 cmが置いてあるのを見つければ「その時は買うべき時」なのだ。

その希少価値が出てきた24~26 cmで、しかも室内履きにしたいような靴下はマルジにでも行かない事には、滅多に手に入らないのだ。そこで、折角車があって仮令混雑する縁日であっても、地蔵通りに向かって行った次第だった。そして、運良く希望のサイズを入手できて目出度し目出度しだったのだ。この小さい靴と靴下を探し求めていて、何時も思い出す言い方に「馬鹿の大足、間抜けの小足、丁度良いのがくそたわけ」があった。自分が間抜けかどうかは知らないが、海外でも色々と経験したものだったので、この際回顧してみようと思う。

*5-1/2(5 and half)はサイズという名に値しない:
これは靴のサイズの話で、日本式に言えば23.5 cmになるだろうか。1976年にニュージャージー州のアトランテイックシテイーで靴のブランドであるジョンストン&マーフィーの店に一歩踏み込んだ瞬間に、店主が私の足下をジロっと見て「5 and halfは置いていない。何故ならば、その大きさはサイズの名に値しないからだ」と言い切ったのだった。軽蔑されたと解釈して非常に不愉快だったが、仕方なく外に出た。

*We don’t carry 38 extra short.:
これは1973年だったかのニューヨーク市での出来事。5番街だったと記憶するが、散歩中にぶらりと洋服店に入って回転するスーツのハンガーに触れていると、近寄ってきた店員に“We don’t carry 38 extra short.”と言われたのだった。これは「胸囲の狭い極小のサイズは置いていない」という意味で、矢張り馬鹿にされた感が濃厚な言い方。ところが、その店員が「ほら、ご覧」と回していると、何とそのサイズの気が利いたピンストライプで、濃い灰色(チャコールグレー)のスーツが出てきたのだった。そこで、彼は一転して平謝りで「是非ともお買い上げを」と迫ってきた。もとより、最初の無礼さに腹が立っていたので拒否した。後になって解ったことだが、この手の小さい物は先ず売れないので、見込み客を見つけた時即ち、何としても売り込む機会なのだった。

確かに、アメリカの東海岸では小さいサイズは先ず手に入らなかったが、西海岸であるワシントン州のシアトルに来ると、話は変わってきたのだった。デパートやブランド物の靴屋には23.5 cm相当の靴が置かれていたのだった。不思議に思って現地人や駐在員の方々に教えを乞うと、理由は簡単で「西海岸には中国人を始めとしてアジア系アメリカ人や移民が多いので、小さいサイズの需要があるのだ」と言うことだった。

*2足如何ですか:
これはシアトルのBallyの専門店でのこと。5-1/2の靴はは先ずあるまいと思って、気楽に眺めていた。すると、何と“Sale”と銘打った棚の中にそのサイズで濃紺の格好良いスリップオンの靴があったのだ。アメリカのセールである以上、先ず正価の半額以下だったし、為替レートの悪戯で我が国で買える普通の靴の値段以下になっていた。それでも「濃紺では」と迷っていると、店員に腕を捕まれて「滅多にない買い手を見つけたので、何とかお買い上げを」と迫られた。

彼は「濃紺でも他人はそこまで見ていないし、黒に見える」と口説いてきた。試着(試し履きか)するとピッタリだったし、午後3時を過ぎていて靴を買うには適した時刻だったので思い切ることにした。すると、彼は「一寸お待ちを」と言って引っ込んだかと思えば、茶色の同じサイズの靴を持ってきて「2足買って貰えれば、もう少し値引きする」というのだった。これは固持して1足だけにしたが、後になって「買っておけば良かった」と少し悔やんだ。こういう事情で、私は5-1/2の靴は全て良い値段でアメリカ、それもシアトルだけで買っていた。

また、スーツは買わなかったが(胸囲は合ってもズボンの胴回りが合わなかったので)ブレザーなどはブルックスブラザーズ(BB)で買っていた。アメリカ物は袖丈が長すぎたが、BBにはテイラーがいて、その日のうちに寸法を合わせて、ホテルに届けてくれるサービスがあったので便利だった。即ち、小足でも小柄でも西海岸に行けば何とかなっていたのだった。しかも、値段は経済的なのだったから言う事はなかった。カリフォルニア州のロデオドライブ(だったか)のBBのセールで買った3着$150の柄物のシャツも、サイズはピッタリだった。これでも「間抜けの小足」と言われるのだろうか。


「マウンテイング」とは

2021-04-27 08:02:58 | コラム
「マウンテイング」とは新発見のカタカタ語だった:

最新のPresident誌に掲載されている有志の座談会で、この「マウンテイング」という余り肯定的な意味で使われていない言葉が多用されていて、その大凡の意味を悟った。だが、念の為にとあらためて検索して確認できたので、敢えて紹介してみようと思う。

>引用開始
マウンティングとは、自分の方が相手よりも立場が上であること、また優位であることを示そうとする、行為や振る舞いのこと。特に、対人関係において、自分の優位性を示そうと自慢したり、相手を貶したりすることを指す。
<引用終わる

それではと、なお追及してみることにした。すると、英語の“mount”にはそう言う意味はなく、紛れもないカタカナ語だと知り得たのだった。感じ入ったことは「矢張り我が国には英語の単語の知識が豊富な方が多く、mountという単語をこのように応用して『マウンテイング』という概念を創り上げてしまったのだ」という点だった。私には到底到達できない創造力だと真面目に感心した。

敢えてお断りしておくと、今回はカタカナ語批判をしようと言うのではないということだ。それは、私は長い間のアメリカの会社暮らしで、彼らの「余所様に言って頂く前に、自分から言い出そうという思考体系に染まってしまっていた」という点だ。その表れが、何かといえば「アメリカ及び世界での有数の紙パルプ・林産物会社のミードとウエアーハウザーに通算で22年以上も勤務していたこと、往年(と、言わねばならないのが残念だが)は我が国有数の進学校だった湘南高校から、今では四大私立大学の一角を占めると評価して頂いている上智大学出身であることに触れている点」は、読者の方や世間様からすれば「マウンテイング野郎」と看做されているのではないかとの懸念である。

自分としてはマウンテイングをしてやろうという意図など毛頭なく、唯々自分が何者であるかを知って頂こうと思っていただけだった。だが、この「マウンテイング」の概念というか定義を知れば、私はその範疇に入る間抜けだったと言われても仕方がなかったと、反省しきりなのである。正直なところ「いやはや」との思いだ。

同時に感心したことは「何でも嫌がらせや職権乱用ややいじめの範疇に入る行為を全て『何とかハラスメント』に纏めてしまう概念と造語を創り出す力量の凄さ」である。この「マウンテイング」にしたところで、上述のような長文(?)の表現になる概念を、たった一言に纏めてしまったのは凄いと思う、正直なところ。何とかハラスメントも同様で、私が長い間の英語暮らしの間に一度くらい聞いたか使ったことがあったかと思う程度の固い単語の“harassment”を応用して「パワハラ」等々を創り上げてしまい、漢字の文化を追い払ってしまったのは凄いと驚嘆している。

話は違うかも知れないが、先ほどもテレビのニュースで飲み屋の社長が「マイナスイメージを与える」と言っていたのを聞いて、これを英語で表現して見よと言われたら「暫くお時間を頂戴して考えたい」と言っただろうと考えてしまった。二つの単語を使って「否定的な概念を思わせる」か「好ましくない印象を与える」とでも言えば良いかと言いたいようなことを表現してしまった。矢張り漢字の文化を避けて通ろうという傾向が著しいと思わざるを得ない。