我が国とアメリカの文化の違いが現れているのかな:
昨24日の午後は墓参から帰宅した後は、連敗中のタイガースと10連敗が止まったベイスターズの試合をNHKで途中から見ていた。気が付いたことがあった。それは余り聞き慣れない声の解説者が、余り先例がないような投手の心理状態と捕手との呼吸の合わせ方と打者との心理的な駆け引きを淡々と語っていたのだった。非常に解りやすかったので、慌てて「これは誰か」と調べてみた。すると、昨シーズンでタイガースから引退した藤川球児だった。そう言えば、何時だったか彼の解説を聞いた記憶があったなと言う程度で、彼がNHKの解説者陣に加わったとは初めて知ったのだった。
私の捉え方では藤川球児の解説は質が高いとの評価になるが、難を言えば余りにしゃべり過ぎで、アナウンサーが掛け合うのが難しいのではないかと言う辺りだった。別な言い方をすれば、過剰なサービスであるしゃべり過ぎであり、あれではもしかすると、選手たちから「手の内を明かし過ぎだ」との非難が出てくるのではないかと懸念したのだった。
何故、私がそう言うのかを振り返ってみようと思う。もう40年以上も前のことになってしまったかと思うが、日本の会社の頃に、親しくさせて頂いていた取引先の社長さんに早稲田大学の野球部のOBの方がおられた。私も野球は好きな方なので、日本シリーズの際などは色々と理由を挙げてその会社を訪問して、社長室で専門家の解説付きで観戦していたのだった。そこで驚かされたことは、自分ではかなり野球を良く知っていると思っていたにも拘わらず、社長の解説には全く知らなかった点の指摘ばかりだったという辺りだった。特に、投手対打者の駆け引きなどは、全てが新鮮な驚きばかりだった。
そこで伺って見た「何故、テレビの中継放送に登場する解説者たちは、社長が指摘されたような事柄には触れないのですか」と言って。社長はニヤッと笑われて「解説者がここまで内輪のことを語ってしまえば、野球ファンや視聴者の知識が過剰に豊富になってしまって、何時の日にか解説者が要らなくなってしまうではないか。それでは同業者に迷惑がかかるのだ」と解説された。正直に言って「なるほど」と痛感した。今になって言えることで、私が屡々「解説者たちは単なる野球の説明者か、第2のアナウンサーに過ぎない」と非難してきたことには、そういう一面があったのだ。
より極端に言えば「彼ら解説者に『今のは良いプレーだった』とか『素晴らしい変化球だった』などと言って貰わないでも、テレビである以上、誰の目にも見える場合が多いのだ。即ち、あの社長の説明を適用すれば「彼ら野球界のOBたちは自分と仲間を守る為に、当たらず障らずのことを言っているしかないのではないか」となってしまうのだ。そうであれば、折角の藤川球児の微に入り細を穿つた解説は、何時か何処かから批判されかねないと気になってしまうのだ。
解説者の難しさにはこのような一面があると同時に、私は彼ら解説者が滅多に選手たちを厳しく批判したり、下手なプレーを責めないのは不満足だと指摘して来た。すると、ある競技の社会人リーグのコーチを務めていた人物に「見当違いの批判だ」と指摘された。そう言う根拠は「彼らは野球なりサッカーなり、ラグビーの世界で育ってきたし、今後とも自分の世界での立場を考える時に、迂闊に仲間内の批判など出来ないし、もしもしてしまえば居場所を失いかねないと知るべし」だった。
尤もなことだと理解はした。そう聞いてみれば、野球界ではこれまでに真っ向唐竹割りに下手な選手、駄目なプレーを斬って捨てていた解説者はと言えば、私が高く評価してきた名監督の広岡達朗氏と故野村克也氏くらいのものだった。このお二方ならば何を言っても誰も逆らえない権威者だったし、今更居場所の心配など不要だっただろう。ここまでで何が言いたかったかと言えば、昨日の藤川球児のように誰にでも解りやすく投手という仕事(あるいは野球の)の奥深さを説き聞かせてくれる解説者を歓迎したいと言うことなのだ。サッカー界のMFのようなベンチャラばかりの解説をする根拠は解るが、そう言う解説者は不要だと言うこと。
アメリかでは野球とフットボールの中継を何度も見てきたが、元の名選手の解説者は殆ど喋りすぎることはなく、アナウンサーに促された時だけに言葉少なく「良いプレーだった。何故かと言えば」程度は言ってくれるが、どちらかと言えば「見ていれば解るだろう」とでも言いたいような静かな存在だったという印象。これを文化の違いと決めつけたい気もするが、我が国の中継放送のアナウンサーたちの語り口はラジオ時代そのままで、未だに「投げました。打ちました」式で多弁だし、解説者までもそれを真似ている気がする。これって矢張り文化の違いなのかな。
昨24日の午後は墓参から帰宅した後は、連敗中のタイガースと10連敗が止まったベイスターズの試合をNHKで途中から見ていた。気が付いたことがあった。それは余り聞き慣れない声の解説者が、余り先例がないような投手の心理状態と捕手との呼吸の合わせ方と打者との心理的な駆け引きを淡々と語っていたのだった。非常に解りやすかったので、慌てて「これは誰か」と調べてみた。すると、昨シーズンでタイガースから引退した藤川球児だった。そう言えば、何時だったか彼の解説を聞いた記憶があったなと言う程度で、彼がNHKの解説者陣に加わったとは初めて知ったのだった。
私の捉え方では藤川球児の解説は質が高いとの評価になるが、難を言えば余りにしゃべり過ぎで、アナウンサーが掛け合うのが難しいのではないかと言う辺りだった。別な言い方をすれば、過剰なサービスであるしゃべり過ぎであり、あれではもしかすると、選手たちから「手の内を明かし過ぎだ」との非難が出てくるのではないかと懸念したのだった。
何故、私がそう言うのかを振り返ってみようと思う。もう40年以上も前のことになってしまったかと思うが、日本の会社の頃に、親しくさせて頂いていた取引先の社長さんに早稲田大学の野球部のOBの方がおられた。私も野球は好きな方なので、日本シリーズの際などは色々と理由を挙げてその会社を訪問して、社長室で専門家の解説付きで観戦していたのだった。そこで驚かされたことは、自分ではかなり野球を良く知っていると思っていたにも拘わらず、社長の解説には全く知らなかった点の指摘ばかりだったという辺りだった。特に、投手対打者の駆け引きなどは、全てが新鮮な驚きばかりだった。
そこで伺って見た「何故、テレビの中継放送に登場する解説者たちは、社長が指摘されたような事柄には触れないのですか」と言って。社長はニヤッと笑われて「解説者がここまで内輪のことを語ってしまえば、野球ファンや視聴者の知識が過剰に豊富になってしまって、何時の日にか解説者が要らなくなってしまうではないか。それでは同業者に迷惑がかかるのだ」と解説された。正直に言って「なるほど」と痛感した。今になって言えることで、私が屡々「解説者たちは単なる野球の説明者か、第2のアナウンサーに過ぎない」と非難してきたことには、そういう一面があったのだ。
より極端に言えば「彼ら解説者に『今のは良いプレーだった』とか『素晴らしい変化球だった』などと言って貰わないでも、テレビである以上、誰の目にも見える場合が多いのだ。即ち、あの社長の説明を適用すれば「彼ら野球界のOBたちは自分と仲間を守る為に、当たらず障らずのことを言っているしかないのではないか」となってしまうのだ。そうであれば、折角の藤川球児の微に入り細を穿つた解説は、何時か何処かから批判されかねないと気になってしまうのだ。
解説者の難しさにはこのような一面があると同時に、私は彼ら解説者が滅多に選手たちを厳しく批判したり、下手なプレーを責めないのは不満足だと指摘して来た。すると、ある競技の社会人リーグのコーチを務めていた人物に「見当違いの批判だ」と指摘された。そう言う根拠は「彼らは野球なりサッカーなり、ラグビーの世界で育ってきたし、今後とも自分の世界での立場を考える時に、迂闊に仲間内の批判など出来ないし、もしもしてしまえば居場所を失いかねないと知るべし」だった。
尤もなことだと理解はした。そう聞いてみれば、野球界ではこれまでに真っ向唐竹割りに下手な選手、駄目なプレーを斬って捨てていた解説者はと言えば、私が高く評価してきた名監督の広岡達朗氏と故野村克也氏くらいのものだった。このお二方ならば何を言っても誰も逆らえない権威者だったし、今更居場所の心配など不要だっただろう。ここまでで何が言いたかったかと言えば、昨日の藤川球児のように誰にでも解りやすく投手という仕事(あるいは野球の)の奥深さを説き聞かせてくれる解説者を歓迎したいと言うことなのだ。サッカー界のMFのようなベンチャラばかりの解説をする根拠は解るが、そう言う解説者は不要だと言うこと。
アメリかでは野球とフットボールの中継を何度も見てきたが、元の名選手の解説者は殆ど喋りすぎることはなく、アナウンサーに促された時だけに言葉少なく「良いプレーだった。何故かと言えば」程度は言ってくれるが、どちらかと言えば「見ていれば解るだろう」とでも言いたいような静かな存在だったという印象。これを文化の違いと決めつけたい気もするが、我が国の中継放送のアナウンサーたちの語り口はラジオ時代そのままで、未だに「投げました。打ちました」式で多弁だし、解説者までもそれを真似ている気がする。これって矢張り文化の違いなのかな。