岸田総理は経団連に3%の引き上げを要望したとか:
既に取り上げたことだが、21世紀の大学新卒の給与が20万円と一寸だと聞いた50歳台が「それでは30数年前と同じ水準だ」と驚く前に呆れていた。私はこのことが象徴的に表している我が国の企業の不振の最大の原因の一つに「経営者の劣化」があるのではないかと指摘してきた。ここで、いきなり結論めいたことを言ってしまうと「経営者は総理大臣に要請される前に、昇給させるか否かの経営判断をしたら如何ぁ」ということだ。
そう批判めいたことを言っている自分自身は、アメリカの会社をリタイアして既に27年を経ているので、その劣化の内容も「一向に給与を上げずに過ごしてきたこと」と「内部留保にのみ専念している」という、マスコミの揚げ足取りくらいしか知らないのだ。でも、20万円台とはデイビッド・アトキンソン氏に指摘されるまでもなく、怪しからんことであり情けないことだと思っている。
しかしながら、マスコミ報道で知る限りでは、大手というか上場企業の現在及び新任の社長さん方の学歴を拝見すると、圧倒的多数の方は国立大学の一期校や所謂四大私立等の有名校の出身であり、中には我が国どころかアメリカやUKの有名大学の修士号や博士号まで取得しておられる方が増えている傾向も見られる。と言うことは、旧制中学以来の級友が言うように「皆が頭脳明晰で答えが一つの試験では、優秀な成績だった勉強の秀才だっただけではないか」と思わせられてしまう。
ところで、私は常にUKと言っているが、何故かそれと対比するアメリカをUSAとしないのはおかしいと言われそうだ。だが、これには「アメリカ合衆国」を「米国」と表記するのは非合理的であると見ているからなのだ。また、UKと言う理由は1969年に初めて出会ったこの国の製紙会社の営業部長に「貴方はイングランドから来たのですか」と言ったら怖い顔で怒られて“I am from the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland.”であると怒鳴られた。則ち、イングランドはその一部であるのだから、今後はUKと言えと命じられたからなのだ。
閑話休題。ここからは給与について少しばかり論じようと思うのだが、そこにはアメリカの企業社会に長い間所属していた者の視点も加えていこうと考えている。40年以上も昔の事だったか、出張してきたマネージャーが春闘のストライキだったかの為に予定通りに国内を移動できなくなったことがあった。その点を説明するのに「春闘」を何処かで聞き覚えがあった“spring labor offensive”を使って「昇給を勝ち取る為に、組合が中心になって経営側に闘争を挑んでいるのだ」と説明した。「闘争」と言った途端に彼にとっては一層理解不能となってしまった。
これは、これまでに何度も何度も説明というか論じてきたことである企業社会の文化の違いで、アメリカでは事業部長が欠員か新規事業用咽頭を採用する際に、候補者人一人と話し合って年俸を決めることから始まるのだ。そこから先は1年毎に事業部長との1対1の話し合いで実績を基にしての昇給・据え置き・減俸・馘首を決めて行くのが一般的である。そこには「闘争」などはあり得ないのである。しかも、アメリカでは労働組合は会社側とは別個の存在なので、我が国でその組合が闘争の中心的役割を担うことなどは理解を超越しているのだ。
しかも、定年制などがない国であるから、成績次第では高齢者でも昇給していく仕掛けなのである。そして、昇給するか否かは各人の成績次第であるから、全社的な業績とは関係なしに昇給していくことだってあるのだ。こう言うと如何にも調子が良い話のようだが、成績次第ではと言うか「これだけやります」と見得を切っただけの成果が挙がらなければ、人事権を持つ事業部長はいともアッサリと馘首するのだから、USA方式の方が良いのだとは言い切れないのだと思うのだ。
それ以外にもこれまでに何度も例に挙げた怖い例がある。それは、フォードのオウナーであるヘンリー・フォード二世が、辞めさせたばかりの社長リー・アイアコッカの腹心だった副社長を“I don’t like you.”という理由で馘首したという例に見る「経営者(乃至は事業部長)の好き嫌い」が馘首の理由になってしまうという話だ。我が国の企業社会では恐らくあり得ないことだろうと思う。
長々と述べてきたが、ここに見えている我が国とアメリカの企業社会との違いは「アメリカでは給与は入社年次や年齢や同期入社の者とか他者との比較や実績で決まるものではないし、勿論会社との闘争で決まることはあり得ない」のである。忘れてはならないことは、労働組合員たちは年功序列制も加味された時間給制であって社員のようなサラリー制ではないので、会社とは争わないと思っていて良いだろうと言うことだ。
近頃、我が国でもこのようなアメリカ式である「雇用主の事業部長等が即戦力の候補者を面接して採用し、職務内容記述書則ち“job description”を与えて業務を任せていく『job型』方式」も採用され始めたようだ。換言すれば、従来のように「皆で一丸となって業務をテイームで推し進める」のではなく「個人の能力を主体とするというか依存する」方式を加味しようとする形だと見ている。私は会社全体がその方式になっていなければ「木に竹を接いでしまった」かの如き結果となって、実績が上がるのかと懐疑的である。だが、昇給か減俸か否かの判断は簡単になるとは思う。
更に言えば、幼い頃から我が国の文化である個人の能力が主体ではない文化の下で育ってきた、学校の成績が優秀だった者たちを集めて「サー。明日からjob型の世界だ」というのも無理があるのではないかと危惧する。
私はこういう形式の導入よりも、経営者たちが思い切って「給与を上げることが先決である。その先に業績の好転があり、我が国が大きく依存している内需の振興がある」と方針を転換できるかだと思っている。彼らがそもそも頭脳は明晰なのだから、もうそろそろ「卵と鶏と何れが先か」に目覚めて、総理大臣に繰り返して要望される前に昇給に踏み切ったら如何かと思うのだ。
なお、私はウエアーハウザーに転入してから19年余りを殆どの間同じ業務を担当して、その分野のスペシャリストとなり得て、その点を評価されていたと自負している。恐らく日本の会社にいたら、19年間も同じ仕事を続けるのではなく、社内の色々な分野を回ってジェネラリストに仕立てられていたと思う。スペシャリストとジェネラリストの何れが良いのかと問われれば、私は「人には向きと不向きがあって、私は偶々アメリカのスペシャリスト型が向いていただけで、その為に61歳まで勤められ、それ故に無事に昇給できていたのだ」と答える。
既に取り上げたことだが、21世紀の大学新卒の給与が20万円と一寸だと聞いた50歳台が「それでは30数年前と同じ水準だ」と驚く前に呆れていた。私はこのことが象徴的に表している我が国の企業の不振の最大の原因の一つに「経営者の劣化」があるのではないかと指摘してきた。ここで、いきなり結論めいたことを言ってしまうと「経営者は総理大臣に要請される前に、昇給させるか否かの経営判断をしたら如何ぁ」ということだ。
そう批判めいたことを言っている自分自身は、アメリカの会社をリタイアして既に27年を経ているので、その劣化の内容も「一向に給与を上げずに過ごしてきたこと」と「内部留保にのみ専念している」という、マスコミの揚げ足取りくらいしか知らないのだ。でも、20万円台とはデイビッド・アトキンソン氏に指摘されるまでもなく、怪しからんことであり情けないことだと思っている。
しかしながら、マスコミ報道で知る限りでは、大手というか上場企業の現在及び新任の社長さん方の学歴を拝見すると、圧倒的多数の方は国立大学の一期校や所謂四大私立等の有名校の出身であり、中には我が国どころかアメリカやUKの有名大学の修士号や博士号まで取得しておられる方が増えている傾向も見られる。と言うことは、旧制中学以来の級友が言うように「皆が頭脳明晰で答えが一つの試験では、優秀な成績だった勉強の秀才だっただけではないか」と思わせられてしまう。
ところで、私は常にUKと言っているが、何故かそれと対比するアメリカをUSAとしないのはおかしいと言われそうだ。だが、これには「アメリカ合衆国」を「米国」と表記するのは非合理的であると見ているからなのだ。また、UKと言う理由は1969年に初めて出会ったこの国の製紙会社の営業部長に「貴方はイングランドから来たのですか」と言ったら怖い顔で怒られて“I am from the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland.”であると怒鳴られた。則ち、イングランドはその一部であるのだから、今後はUKと言えと命じられたからなのだ。
閑話休題。ここからは給与について少しばかり論じようと思うのだが、そこにはアメリカの企業社会に長い間所属していた者の視点も加えていこうと考えている。40年以上も昔の事だったか、出張してきたマネージャーが春闘のストライキだったかの為に予定通りに国内を移動できなくなったことがあった。その点を説明するのに「春闘」を何処かで聞き覚えがあった“spring labor offensive”を使って「昇給を勝ち取る為に、組合が中心になって経営側に闘争を挑んでいるのだ」と説明した。「闘争」と言った途端に彼にとっては一層理解不能となってしまった。
これは、これまでに何度も何度も説明というか論じてきたことである企業社会の文化の違いで、アメリカでは事業部長が欠員か新規事業用咽頭を採用する際に、候補者人一人と話し合って年俸を決めることから始まるのだ。そこから先は1年毎に事業部長との1対1の話し合いで実績を基にしての昇給・据え置き・減俸・馘首を決めて行くのが一般的である。そこには「闘争」などはあり得ないのである。しかも、アメリカでは労働組合は会社側とは別個の存在なので、我が国でその組合が闘争の中心的役割を担うことなどは理解を超越しているのだ。
しかも、定年制などがない国であるから、成績次第では高齢者でも昇給していく仕掛けなのである。そして、昇給するか否かは各人の成績次第であるから、全社的な業績とは関係なしに昇給していくことだってあるのだ。こう言うと如何にも調子が良い話のようだが、成績次第ではと言うか「これだけやります」と見得を切っただけの成果が挙がらなければ、人事権を持つ事業部長はいともアッサリと馘首するのだから、USA方式の方が良いのだとは言い切れないのだと思うのだ。
それ以外にもこれまでに何度も例に挙げた怖い例がある。それは、フォードのオウナーであるヘンリー・フォード二世が、辞めさせたばかりの社長リー・アイアコッカの腹心だった副社長を“I don’t like you.”という理由で馘首したという例に見る「経営者(乃至は事業部長)の好き嫌い」が馘首の理由になってしまうという話だ。我が国の企業社会では恐らくあり得ないことだろうと思う。
長々と述べてきたが、ここに見えている我が国とアメリカの企業社会との違いは「アメリカでは給与は入社年次や年齢や同期入社の者とか他者との比較や実績で決まるものではないし、勿論会社との闘争で決まることはあり得ない」のである。忘れてはならないことは、労働組合員たちは年功序列制も加味された時間給制であって社員のようなサラリー制ではないので、会社とは争わないと思っていて良いだろうと言うことだ。
近頃、我が国でもこのようなアメリカ式である「雇用主の事業部長等が即戦力の候補者を面接して採用し、職務内容記述書則ち“job description”を与えて業務を任せていく『job型』方式」も採用され始めたようだ。換言すれば、従来のように「皆で一丸となって業務をテイームで推し進める」のではなく「個人の能力を主体とするというか依存する」方式を加味しようとする形だと見ている。私は会社全体がその方式になっていなければ「木に竹を接いでしまった」かの如き結果となって、実績が上がるのかと懐疑的である。だが、昇給か減俸か否かの判断は簡単になるとは思う。
更に言えば、幼い頃から我が国の文化である個人の能力が主体ではない文化の下で育ってきた、学校の成績が優秀だった者たちを集めて「サー。明日からjob型の世界だ」というのも無理があるのではないかと危惧する。
私はこういう形式の導入よりも、経営者たちが思い切って「給与を上げることが先決である。その先に業績の好転があり、我が国が大きく依存している内需の振興がある」と方針を転換できるかだと思っている。彼らがそもそも頭脳は明晰なのだから、もうそろそろ「卵と鶏と何れが先か」に目覚めて、総理大臣に繰り返して要望される前に昇給に踏み切ったら如何かと思うのだ。
なお、私はウエアーハウザーに転入してから19年余りを殆どの間同じ業務を担当して、その分野のスペシャリストとなり得て、その点を評価されていたと自負している。恐らく日本の会社にいたら、19年間も同じ仕事を続けるのではなく、社内の色々な分野を回ってジェネラリストに仕立てられていたと思う。スペシャリストとジェネラリストの何れが良いのかと問われれば、私は「人には向きと不向きがあって、私は偶々アメリカのスペシャリスト型が向いていただけで、その為に61歳まで勤められ、それ故に無事に昇給できていたのだ」と答える。