新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

あの日から80年も経っていたのだ

2021-12-08 08:22:19 | コラム
あの日のことは今でも鮮明に覚えている:

私の記憶では当時は疎開と転地療養で住んでいた藤沢市鵠沼の家の隣の叔母の家の台所の薄暗い電灯の下で、母と叔母と小学校3年生だった私の3名があの「西太平洋上において戦闘状態に入れり」というラジオの報道を聞いて「やった、やった」と喜び合っている状況で、何故か客観的な絵になっているのだ。何故「やった、やった」と歓喜したことの背景には全く記憶がない。昭和16年、即ち1941年の12月8日だった。

それから4年経った昭和20年8月15日には、中学1年生になっていた私はあの玉音放送(と言って、現代の子供たちが何のことか解るだろうか)を緊張して聞き「あー。終わったんだ。負けたんだ」と知ったのだった。これまでに何度も回顧したことだが、あの日は雲一つない快晴で、その青い空からは未だアメリカ軍の艦載機の機銃掃射のバリバリという音が聞こえてきて「アメリカ軍は戦争が終わったのに未だ撃っているのか」と奇異に感じたことも忘れていない。

あれから80年も経って現在の我が国がある。それでも報道機関や芸能界では、未だに戦争の映画や演劇や当時の苦しい時代をテレビのドラマで描いては「戦中と戦後の我が国の状態を描こう」とする姿勢を捨てていない。私は彼らがあの頃の我が国の状況を経験した年齢層にあるとは思えない。

私はあの「戦時中」という時期には我々が正常な精神状態であったとは思えない所にあったというか、勝つ為にはどうするべきかという異常に差し迫った状況に追い込まれていたと思っている。私は反戦論者でも何でもないが、あの頃のことは思い出したくもないし、この期に及んでまでテレビなどで見せて貰いたくはないのだ。

更に、何も食べられる物がなくて、油を絞った後の豆の滓や、水とんなどの他に薩摩芋などしかなく、米を食べることなどは夢の世界だった時代を、我々80歳以上の高齢者は経てきているのだ。今でもここまで書いてきて配給で何を食べて育ってきたかの記憶は、80年前の12月8日ほど鮮明ではない。即ち、忘れようとした時代に関しての記憶なのだ。私は経験もしていないあの頃のこと、や知りもしないことを描きたがる連中には最低限度の好感も持てないのだ。