新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月27日 その2 注文を聞きに来ない寿司屋

2021-12-27 16:56:51 | コラム

デイジタル禍の時代:

25日のことだった。我が方は墓参の後の昼食を地蔵通りの中の店を敬遠して、17号線沿いで地蔵通りからも近い所に何時の頃からか出店した「すし三昧」で楽しむようにしていた。今回は初めての経験をした。それは満席の為に記帳してから店外で待つことだった。それほど多くの人が地蔵通りに出てきているという事だろうか。

実は、この店も今年の4月に来た時に知ったことで、注文は卓上のタブレットでする方式になっていた。この程度のデイジタル化はまさか菅義偉前首相の「デイジタル化推進」の大方針に沿った訳ではあるまいが、我が百人町/大久保界隈と高田馬場駅周辺の「すき家」、中国人経営の四川料理店(タブレットは華為製だった)、「スシロー」、「クラ寿司」等々でも始まっている省力化の一環だと解釈している。この流れに遭って、家内などは「遠からぬ将来外食が出来なくなるのでは」と懸念している。

あの日も、我々のテーブルの隣に二人の高齢のご婦人が着席して、案内した店員に確か焼酎の水割りを口頭で注文し、それを聞こし召しながら楽しげに歓談しておられた。私はその様子を横目に見ながら、恐らく彼らは永久に注文できないだろうと思っていた。果たせるかな、何の音沙汰もなかったので、次第にいらつき始めた。そして、幸いにも通りかかった店員を呼び止めて「注文する」と告げられた。

男性の店員は困惑顔で事情を説明したが無駄な努力だった。そして諦めたのか、従来の注文を入力する装置?を持ってきて無事に受注した。それでも、彼女らは未だ寿司屋がデイジタル化された事情が呑み込めていないようだった。だが、私にも家内にも十分に理解できる事態だったと思う。思うにこのような簡単なデイジタル禍は、このようなチェーン店ではこれから先に進んでいくことは十分に予測できると思うのだ。

近頃は頻繁にシルバーパスで利用するバスの中や、JRの車内でもスマートフォンをせっせと使いこなしておられる高齢のご婦人を見かけることが増えてきた。政府はそこを見越したのか、法律で「国民はスマートフォンを所持せよ」と定められている訳でもないのに、ワクチンパスポートのようにマイナンバーカードを使ってスマートフォンでダウンロードせよと、シレッとして言っている。我が方は去りし10月で何とか両方を供えたが、そうでない方々には今後とも益々「デイジタル禍」が襲ってくるのではないのだろうか。

私はすし三昧ではそのご婦人たちに「困った時代になりましたね」と声をかけてから退出したのだった。


変わりゆく巣鴨の地蔵通り:

2021-12-27 08:36:44 | コラム

変わりゆく巣鴨の地蔵通り:

2日遅れの話になってしまったが、去る25日に1日遅れで亡父の祥月命日の墓参りに染井霊園に行って来た。その後に毎年のように行って見た地蔵通りは「四の日」の縁日ではなかったが、かなり多くの人で賑わっていた。

そこに目立った現象が二つあった。それは、テレビなどで相変わらず「高齢者の原宿」などと戯けた紹介がされているこの商店街を歩いていた人々の半分ほどは、高齢者ではなかったということ。即ち、テレビの宣伝文句に刺激されたのか、言うなれば一般人が訪れるように変わってきたと思わせられたのだった。私はこの「トゲ抜き様」の通りには戦前から来ていたので、今でも懐かしさ半分で墓参りの後は必ず訪れているだけのこと。

もう一つの変化はといえば、商店街に入ってから見えてくる景色が変わってきたとでも言えば良いのだろうか。それは、何も高齢者相手の店ばかりではなくなっているという傾向が顕著になったということ。即ち、何時の間にかタリーズコーヒーが出ていたし、コンビニもあるし、これまでには見かけなかったラーメン店もあるし、更地が目立つという具合だ。そこには時代の変化もあるのだろうが、新型コロナウイルス禍(私は「コロナ」という誤用された言葉を認めていない)も、この街にも及んできたのかと考えさせられた。

また、この通りに沿って国道17号線(中山道)が走っているので、巣鴨駅からここにかけても結構な人出だったのは、矢張り人々は第5波が下火になったこともあって警戒心が緩んできたのかと痛感させられた。各テレビ局は朝から晩までオミクロン株の脅威というか危険性を報じているが、一般大衆にとっては馬耳東風なのかなと感じながら、愚息の運転の車で帰宅した。

私はテレビ局の報道は過剰と言うよりも「オミクロン株とは如何なるものか。如何なる危険性があるのか。防御策は如何にあるべきか」をキチンと取り上げずに、感染者の数ばかりに集中しているのでは視聴者にとっては警告とは響かないと思っている。何処かの週刊誌が指摘していたように「これまでで通りの(厳戒?)態勢を維持する以外に何があるのか」を強調すべきだと思うのだが。地蔵通りを歩いてきて、このように感じた次第だ。