新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月30日 その2 12月30日の小さな出来事

2021-12-30 16:12:03 | コラム

Koreatownとイスラム横丁で:

本30日は正月用の食べ物の購入も少しは兼ねて、大久保通りの山手線の内側にある「肉のハナマサ」に午前11時過ぎに出掛けた。往路は運良く都バスを利用できたので、大混雑の中を歩かずに済んだ。だが、復路は大変だった。兎に角、道路の両側を隙間なく無数の老若男女ではなかった「女」のみが後から後から超「密」な状態で歩いてくるのだ。ハナマサでの大量(?)の買い物を引っ張って歩くのだから、女性の大群の中に頭から突っ込んでいく状態になった。その大群は新大久保駅前から絶え間なく押し寄せてくるのだから、大変な体力を必要とするのだった。

彼らのお目当ては、勿論韓国のあらゆる種類の食べ歩きもあれば、店内での飲食及びそれらの店の前の列に並ぶこと、化粧品、衣料品、韓国のスター(なのかな)関連の商品(カタカナ語にすれば「グッズ」)なのだろう。これまでに何度も「何故(ナニユエ)あって、反日・抗日に一意専心している韓国の製品を買うことに狂奔するのか」と嘆いたが、年末のこの時期にここまでこの街に殺到するのかと思うと、怒る気力も失せてしまった。この通りが彼らの人気が高いとは承知しているが、これほどの大群を経験したのは、初めての出来事だった。

何とか大群を切り抜けて、そもそもは「文化通り」と称されていて、今や「イスラム横丁」と化した我が家に向かい路地に入ると、3名ほどの余り見かけない風体のオッサンが「POLO」の黄色のロゴがデカデカと刺繍された、紺色のジャンパーを着ているのに出会った。思わず家内と顔を見合わせて笑ってしまった。それと言うのも、つい先ほどこの路地に今年の前半に出店した中国製の¥1,000均一の衣料品の店外に陳列されていた、一目で「ナンチャッテ」と解る¥1,950のジャケットだったからだ。「何と1時間足らずの間に3着も売れていたとは」と感心した出来事だった。

この店ではつい先頃、同じ価格帯で「FILA」のジャケットとセーターを売り出していたのだった。その光景を見た二男は「今じゃFILAは売れ行き不振なので、案外本物かも知れないよ」と言っていた。だが、何れにせよ、我が街にはそういう類の衣料品までが出てくるようになったとは、私に言わせて貰えば「小さな出来事」の部類だと思う。因みに、この店では一寸高級品の部類に入りそうな立体型のマスクを店外でカートに乗せて売り出されている。この店は今月から2軒先に袋物の2号店まで出したのだ。

 


憧れのハワイ航路

2021-12-30 09:29:03 | コラム

ハワイ州の観光業が苦境に立たされているとか:

 昨29日だったか、ANNのニュースでアメリカ合衆国ハワイ州の観光業界では2,000億円程の損失を出していると報じていた。その最大の原因が「我が国からの観光客が90%以上も減少したこと」だった。ハワイ州に住まいまで持っているハワイ大好きの長嶋一茂氏は「往復2回で合計28日間も隔離されるのであれば、行きたくなくなる」とぼやいていた。

そこで、アメリカの会社に勤務中の頃から現在までの間に、我が国とアメリカの間を少なくとも60回は往復していた私のハワイ感を述べていこうと思う。実は、ハワイにはオアフ島のホノルルに2回、それも出張で行っただけで、余り語れる材料の持ち合わせはないのだ。

そこで、件名に掲げた「憧れのハワイ航路」から入っていこう。この流行歌を現実に岡晴夫(当時は「オカッパル」などという愛称があった。1916年生まれで1970年没)が歌っていたのを聴かれた方もおられると思う。Wikipediaによれば、この歌は昭和23年(1948年)に出てきたのだそうだが、当時はハワイに行けるもの何も、海外旅行などは一般人にとっては「夢のまた夢」のようなことだったと覚えている。その頃は高校1年生だった私には、何故あれほどハワイ、それもワイキキビーチなどが美化され、フラダンスに憧れるのかなどは全く解らなかった。

私は1948年には再三述べてきたハワイ州出身の日系人だったGHQの秘書だった方と英語で会話が出来るようになっていたし、毎週のように、鵠沼海岸を訪れておられたのは、そこの海岸が例のワイキキビーチに似ているので「懐かしさ」を感じるからだと言っておられた。勉強と全国制覇を目指していた蹴球部の一員だった私には「ハワイ」についてはそれ以上の関心も何もなかった。だが、世間一般では岡晴夫の歌があれほど流行ったことが示すように、海外、それもアメリカと特にハワイに対する憧れがあったようだった。

特に、我が方が当時住んでいた藤沢市鵠沼では慶応大学の学生を中心にしてハワイアンミュージックが大変な流行で、方々で演奏会もあったし、藤沢や東海道線沿線からは何人ものプロのミュージシャンが出てきていた。その中の一人が同じ湘南の2期上の方で、立教大学在学中に寺部頼幸とココナッツアイランダースの一員となった鳥山親雄さんだった。私はこの鳥山さんに導かれてジャズを聴くようになったのだった。

どうも前置きが長くなってしまって申し訳ないが、私は業務上でアメリカ本土に出張する機会が増えてきたが、そういう関連がないハワイ州にはついぞ訪れる機会がやって来なかった。しかし、87年だった方に取引先の購買課長さんが20年勤続記念のご褒美の休暇でハワイに行くので、折角近くまで行くのだから我が社の本社で副社長と懇談の機会が欲しいと要望された。それで、かく申す私が海外に不慣れなお客様をワシントン州までご案内せよとなって、ホノルルまでお迎えに上がったのだった。

それこそ「憧れのハワイ」に胸躍らせてホノルル空港から街に入ってみて受けた印象は「何だ、これは。大型のサイパン島に過ぎないのではないか」だった。ご案内役と言っても一泊はしたので、何とか伝手を求めてホノルルに戻っておられたGHQのヘレン先生ご夫妻との短時間の再会も出来た。島の中を少しは巡ったが何処に行ってもフラダンスなどはついぞ見かけなかった。ワイキキビーチだって、海岸野球大会などが催されていた広い鵠沼海岸と較べれば「何だ。狭いなー」との印象だった。到底、ブランド品を買いに歩くような街ではなかったと思う。

2度目は1990年4月に勤続15年の表彰があったそのご褒美の休暇もあって、副社長からハワイ経由で夫婦でやって来いという有り難い思し召しで、ホノルル経由でワシントン州タコマ(現在はフェデラルウエイ市)に向かった。尤も、ホノルルで寛いでいる間にも、副社長からは容赦なく業務連絡の電話がかかっていたが。この時には「なるほど」と感じた現象に出会った。それは、空港で入国手続きの部屋には入りきれないほど大勢の同胞で埋め尽くされていて、最後尾の人に尋ねると既に1時間待っていると言われた。それほどの人気だったのだと漸く知った。

この時も街中で買い物などはしなかったが、散歩していると白人の青年が「ローレックス(Rolexは断じて「ロレックス」とは発音しない、念の為)の偽物あるよ」と何度か勧誘された。「何だよ。これでは香港や、サイパン島や、ソウルと変わりないじゃないか」と落胆させられた。この時はヘレン夫妻の時間を十分に頂戴して、オアフ島観光をさせて頂き母校のハワイ大学構内にも入る機会を得た。我々夫婦だけでは、トローリーバスを利用して「アラモアナショッピングセンター」にも行って見たが、英語で言えば“Another shopping mall.”だという印象。

COVID-19以前のように毎年のようにリポーターとやらがホノルル空港で訪れてくる著名な芸人たちを待ち構えている観光、買い物、寛ぎ、優越感の場にハワイがなってしまうとは、私のたった2回のハワイ訪問ではとても考えられなかった。ただ思う事は「未だに我が国ではハワイが憧れの街であり続け、買い物と休暇と寛ぎの場としか看做していないのは残念至極だ」である。

私は敢えて「アメリカ本土」という言い方をするが、そこに行って見て何らかの形で人々に接すれば「アメリカとは」と「異文化」を学び知る機会になるのだがと、見ている。ハワイからは何も学べないと思うのだ。寛ぎの場が欲しいのであれば、手近な所にアメリカのうちである、より静かなサイパン島だってあるではないか。ここにも免税店だってある。ブランド品の店に行きたいのであれば、もう2時間飛んでロスアンジェルスまで行けば、豪華な店が幾らでも並んでいるし、気候だった温暖だ。

私の僅か2回のホノルル滞在で惑わされたことがあった。それは「ここでは、この人には日本語が通じるだろう」と期待して話しかけると英語しか解ってくれいないことがあった。一方では、英語で語りかけると「それ、解らないのよ」と返されたことだった。ということは「日本人様専用」の店とアメリカ人向けが分かれているのかなという印象。尤も、本土(mainland)の人たちのハワイ旅行を見ていると「最も安い航空券を利用して自炊可能な施設を借りて、自分たちの好むように休暇を楽しむ場」であって、憧れの場ではないとの印象だった。