新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

バスケットボール・ウインターカップの女子決勝戦を観戦して

2021-12-29 14:54:19 | コラム

全国高等学校バスケットボール選手権大会の印象:

バスケットボールはサッカー部員だった私が、中学と高校の頃を通して野球と共に最も慣れ親しんできた種目なので、昨28日の女子高校生の決勝戦は十分な興味を以て観戦していた、

我が国民の体位も向上したものだと痛感:

この試合は途中からチャンネルを合わせた形で観戦した。これは「全国高等学校バスケットボール選手権大会」の事のようだと、先ほどWikipediaで確認できた。検索して非常に印象深かったことがあった。それは、この大会が74回目であり、昨日三連覇を達成した愛知の桜花学園高校は何と70回目の優勝だったということ。これは恐るべき事で桜花学園高校以外では4校しか優勝できていなかったことになるのだから。「そうでしたか」と俄に信じがたい凄い記録だと思った次第。

我が国の女子のバスケットボールの力量は、先頃のオリンピックでアメリカに次いで第2位になったほどで、言うなれば立派に国際的な水準に達しているのだ。その世界で70勝とは驚嘆すべき数字なので、昨日は桜花学園の試合振りに注目していた。

先ず感心したことは画面では小柄に見えた前線で活躍していた選手の一人の身長が185 cmと出た点だった。画面から受けた印象では「小柄な女子選手たちが大したスピードで動き回っているな」だったので、矢張り小柄選手たちの集まりかと思っていたが、それはとんだ誤認識だった。どうやら、現在の女子のバスケットボールの世界では最早185 cmなどは驚くべき高さではないようなのだった。この点は、あのオリンピック代表の主将だった高田真希さんも185 cmだったし、彼女以上の選手は幾らでもいたのだった。

この身長を見せられて、つくづく感じたことは我が国の代表的なバスケットボールの女子選手たちの間では、最早185 cmなどは当たり前の時代になっているという事だった。その昔には「大きい選手たちは動きが鈍い」などと思われていたのだが、今や180 cmの選手の動きが敏捷で、小さく見える時代になっていたのだった。余談になるが、2007年にシアトルのセーフコフィールドで見た「小さな奴が出てきたな」と思わせられた51番をつけていた選手が、かのイチロー君で、彼の身長は180 cm超だったのだ。

昭和一桁生まれとしては「食糧事情」が最悪だった戦後間もなくから育ってきたので、身長も伸びずに体位の向上も望めなかったので、現代の運動選手たちがただひたすら羨ましいのである。負け惜しみと言われようと何だろうと言いたい事は「俺だって満足に食べるものがあれば大谷翔平君にも負けない運動能力が備わっていたかも知れないのに」などと思い込んでいるのだ。

アフリカ系選手たちの活躍に思う事:

昨日の決勝戦では4点差で敗れ去った京都精華高校には中学1年から留学していると聞いたアフリカの選手が2名いた。今や、何もバスケットボール界に限られた現象ではなく、この選手たちのようなアフリカ出身者や両親の何れかがアフリカ出身である「身長が高く、身体能力に優れた」選手の存在が珍しくなくなってきた。際立った例を挙げれば、テニスの大坂なおみさんであり、バスケットボールの最高峰であるNBAで一本目を張っている八村塁君がいるのだ。他の例を挙げれば、先頃の高校駅伝で優勝した世羅高校にもアフリカ系の走者の存在が目立っていた。

ご記憶の方は多いと思うが、オリンピックで大活躍した女子のバスケットボール代表には、NPBの東北樂天ゴールデンイーグルスのオコエ瑠偉君の妹オコエ桃仁花さんがいる。その他には、一寸思いつくだけでも駅伝等の長距離の種目、ヴァレーボールやバスケットボール界には長身のアフリカ系選手の存在が目立っている。このようなアフリカ系乃至は両親の何れかがアフリカ出身者である優れた運動選手は、アメリカの各種のスポーツの世界には数多く見られる時代なのだ。

私はこのような時代の流れというのか傾向を否定する気もなければ、肯定するものでもない。ただ、アフリカの諸国から我が国の中学や高校に留学させて強化を図るのも結構だとは思う。だが、その人たちは学業を終えた後では何れは社会人リーグやプロの選手に転向するのだろう。留学中に確かに日本語の能力も向上して現地の選手たちの仲間に入って活躍できる機会もあるのだろうが、選手生活を終えて帰国して運動と日本語の能力だけを備えているだけで、生活の手段になり得るのだろうかなどと私は密かに気にしている。

私は我が国でも有識者がしきりに取り上げている、アメリカにおけるアフリカ系の人たちの在り方を私はある程度現地で見聞してきた。そこで思うことは、このようなアメリカにおける流れが、何時の日にかが国に於いても「人種問題」にまで至らなければ良いのだがと、独り密かに気になってきているのだ。