新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月20日 その2 私が甲子園ボウルを語れば

2021-12-20 15:39:10 | コラム
甲子園ボウルとは:

その歴史を振り返ってみれば、第1回の甲子園ボウルは1946年に開催されていて、当時は関東と関西のリーグ戦の優勝校が覇権を争っていた。今日では東日本と西日本地区で優勝した大学の(アメリカン)フットボール部が、日本一を決める試合を兵庫県西宮市の甲子園で行うのである。因みに、bowl即ち「ボウル」とは、英語の「お椀」か「鉢」の意味であるbowlから来ており、その試合をするスタジアムがお椀型になっているところから取ったと聞いている。

昨19日には西日本の王者、関西学院大学ファイターズと東日本の覇者、法政大学オレンジが日本一の座を争って対戦していた。私は勿論この試合はテレビ観戦していたが、その試合の内容を語る前に「私と甲子園ボウル」を振り返ってみよう。

私が初めて甲子園ボウルを西宮まで出向いて観戦したのは1983年のことで、日本大学フェニックスの6連覇がかかった重要な試合だった。そこに日本大学高校ブルドッグスの清水之男監督(残念なが故人である)に招待して頂けたのだった。清水氏は「この京都大学相手の試合に勝って6連覇を果たせば、そこから後に本格的なフェニックスの時代が来る」と緊張の面持ちで語っておられた。私は甲子園には1967年までの大阪支店勤務の時に一度だけタイガースの試合を見に入ったことがあったので、あの時が2度目だった。

清水監督も私もフェニックスの勝利を確信して観戦に訪れたのだったが、まさかと思ったようなフェニックスの新人にして身体能力抜群のQB松岡秀樹君が、強力な京都大学ギャングスターズのデイフェンス陣のブリッツに遭って無理な姿勢から投げたパスを、深掘と名字まで覚えているデイフェンスバックのインターセプションされたのだった。その後からフェニックスは崩れ去って、敗戦となってしまったのだった。不思議なことながら、私は未だに松岡君が投げた無理な姿勢を覚えている。

それから暫く間が空いて、1988年から90年までは毎年のように甲子園まで出掛けていって行ったので、篠竹幹夫監督のライスボウル3連覇に至る前の88年から90年までの甲子園ボウル3連覇までの間の試合は全部見ていた。特に88と89年の対関西学院大学ファイターズとの試合は、マスコミが称える「赤のユニフォームのフェニックス」対「青の関学」が、甲子園の美しい緑色の芝生の上で展開する熱戦で、色彩的にも大いに楽しめたのだった。

因みに、ファイターズは昨日の勝利は32回目で、フェニックスは21勝だった。その関西学院ファイターズの前に立ち塞がったのが、立命館大学パンサーズだった。パンサーズはアメリカの大学フットボール界の強豪校、オクラホマ州立大学と提携しているので、アメリカ式の合理的且つ科学的なトレーニング及び練習法を導入して、我が国のスポーツ界に新風を吹き込んだのだった。だが、遺憾ながら、我が国の運動競技全般には未だ立命館大学パンサーズ式の近代性が遍く導入されているとは言えない状態であると見ているのだが。

そこで、漸く昨19日の甲子園ボウルの観戦記に行こう。忌憚のないところを言えば「それ以前の『西高東低』の傾向が一層顕著になっていた」という所だった。結果としては47対7でファイターズの圧勝だったのだが、私には前半の13対0という接戦では「これほど生温いファイターズを見たことがない」というのが、偽らざる感想だった。

それは、ファイターズの47得点を分析してみると、タッチダウン(TD)が5本で35点、フィールドゴール(FG)が4本で12点なのだ。これ即ち、ファイターズは4回もオレンジのゴール前に迫りながらTDに至らず、FGを蹴らざるを得なかったという不甲斐なさだったと思っている。

法政大学オレンジの言うなれば惨敗は、敢えて言うが関東大学リーグの技術と水準の低さをみせていた事になったと思う。今年は橋詰監督の契約が切れた為かフェニックスが不振に終わったので、関東の各大学が冴えなかったかの感が濃厚だった。正直に言えば、ファイターズ対オレンジの間には40点どころではない格差があったと思うのだ。簡単に言えば、ファイターズがFGに終わったオフェンスを全部TDにまで持って行っていれば、合計9TDで63点になってしまうのだ。これは、同時にファイターズにとっても反省点になると思うのだ。


揃目の年が終わりに近付いた

2021-12-20 07:54:46 | コラム
2021年は生涯に一度だろう揃目の年だった:

その2021年も残すところ11日なってしまったので、あらためて二つの数字が並んだ模様を振り返ってみよう。自分では滅多にない面白い現象だと思っているのだが。

1933年生まれの私は戸籍上では来年の1月21日までは88歳である。大学卒業が55年、それから今年が66年目だった。

今住んでいるこのアパートに転居してきたが55歳の時であり、ここに住むこと33年で88歳になっていたのだった。来年になれば、このように同じ数字が並ぶことが消滅するかと思うと、何となく寂しい気がして回顧してみた次第だ。

敢えてゾロ目とせずに「揃目」としたのは、この方が何となくサイコロの目を厳かに表現すると感じたまでで、それだけのことなのだが。