新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月31日 その2 2021年の私の重大ニュース

2021-12-31 10:02:55 | コラム

政権交代だった:

 *我が国では岸田文雄内閣が誕生した:

国民の一人としての私にとっては、岸田文雄氏に全てを託すしかないと思っている。私は菅義偉氏が総理大臣に就任された際に「ロールシャッハテストを受ければ、最も見やすい図形を選ぶような型」という感想を述べた。その意味を今更繰り返すまでもあるまいが「携帯電話料金の引き下げ」や「デジタル庁の創設」等は官房長官の頃から掲げておられた公約だ。何れも見近にある問題で国家の命運を左右するほどの案件ではないのだから「総理大臣が真っ向から掲げられるほどの重大案件かな」と単純素朴に感じたままを述べただけのこと。

だが、その後には「百万回のワクチン接種」などと、一聴したところでは易々と出来そうにもないことを主張され、しかも完全に達成されたように実行力を発揮されていたのだった。

では、岸田文雄氏とは如何なる型の総理大臣かと問われれば、私は「未だにロールシャッハテストの図形を様々に読み解いておられるようだ」としか言いようがないと感じている。菅義偉氏とは全く異なって「新資本主義」と「成長と配分」と、前任者の旗印にはなかったような抽象的な観念を打ち出されるかと思えば、いきなりアベノマスクの廃棄を声高らかに唱えられたりするのだ。何処かの論戦委員が「ウナギ宰相」と形容していたように、捕まえどころがないように思える。

だが、我が国の議員制内閣と民主主義(なのだろう)政治の下にあっては、“unpredictable”と形容されたアメリカのトランプ前大統領のように連日連夜「大統領令」(executive order)に署名し続けて怪刀乱麻を断ち、私が20年以上も慣れ親しんできたアメリカをいともアッサリと変えてしまったのとは違い過ぎるのだ。岸田総理は観念的なことを唱えて、実際の遂行は実務家に任せる方式を採らざるを得ないのだと思っている。菅義偉氏は「実現可能な事」を選んで実行段階に持って行かれたのとは、大いに違っている気がする。

菅政権下の1年間に世界情勢が大きく急速に動いたので、岸田内閣がその任に当たるべき重要な案件が増えすぎた。特に国際的な面では「対中国」が複雑且つ深刻な案件ばかり増えてきた。国内問題だって同様だ。外務大臣だけの多彩?な経験を活かすのではなく、政務調査会長を務められた貫禄を遺憾なく発揮して頂かねばならない時なのである。宜しくお願い申し上げたい。

*民主党からバイデン大統領が着任された:

私は今日までに繰り返して「アメリカの民主党政権はbad news」と唱えてきた。だが、アメリカ国民はそんな事は意に介せずに「トランプでなければ誰でも」とばかりに、ジョセフ・バイデン氏を民主党から選んでしまった。幸いにも、このバイデン政権からは今までの所では我が国にとって深刻な事態になりそうな政策は出てきていない。だが、安倍晋三元総理がいみじくも指摘されたように「台湾有事は我が国の有事」事柄の「対中国」問題は、深刻の度を増しているだけだ。

その時にあって、岸田政権が「外交的ボイコット」を瞬時に決断できなかった点などは、色々な意味で不安材料に思えてならない。韓国に対しても従来の姿勢を変えておられずに優柔不断に見えるのも「如何なものか」と思ってしまう。岸田文雄氏はあの文在寅が不遜にも反故にした「不可逆的」な約束事を成立させた外務大臣だったのだ。何事に於いても、旗幟鮮明な姿勢で臨んで貰いたいと思うのだなどと言ってから、ここではバイデン大統領論だったと思い出した。

バイデン大統領は外交問題に造詣が深いというような評がある。だが、現在まででは「それはトランプ前大統領のように、良き事かどうかは別にして、姿勢と態度を「白か黒か」乃至は「やるかやらないか」を明確に短時間で表明する姿勢の方が解りやすいし、結果は別にして期待感が持てるような気がするのは何故だろう。両国の最高指導者が「慎重に判断する」姿勢を堅持されている間に「習近平王朝」が一歩も二歩も前進し、何処かの専門家が憂いておられたように「チャイニーズ・ジャパン」にされないようにご尽力賜りたいのだ。

 


私にとってのハワイとは

2021-12-31 08:37:03 | コラム

何処にでもここにでもあるアメリカの街に過ぎなかった:

私にとっては「一度は是非とも行って見たかったアメリカ」だったが、40歳も近くなっては、もう縁がなかった国だろう忘れかけていたところに、運命の悪戯と偶然が重なって本土に仕事で行くようになってしまったのだった。だが、それでも「ハワイなんて」と気にもとめていなかったような所だった。その変わりにと言うのか何と言うべきか、ハワイよりは近いサイパン島には3回ほど寛ぎを求めて行っていたので、初めてホノルルに来て見れば「何だ。サイパンよりも一寸規模が大きく、少しだけ洗練されただけじゃないか」と、特に感激もしていなかった。

実は、初めて回顧する事件?なのだが、今を去ること70年ほど前のことで、神奈川県では「県下の高校から生徒を派遣してアメリカを経験させよう」との企画があり、私は英語担当の先生から「我が校からは先ず君が選ばれるだろう」と、有り難いことにその候補に推薦されたのだった。ところが、校長先生がお決めになったことは「何で彼奴が」と思ったほど英語の成績が優勝ではなかった同期生だった。

後から私が選ばれなかった理由を聞けば「アメリカに派遣するには背が高くない」だったそうだ。私は期待を裏切られて激しく失望落胆する前に、親を恨むべきかと思ってしまった。

尤も、息子たちが高校生になって本格的に(アメリカン)フットボールを始めた後で、母親に向かって「何で、あんな小柄な人を選んで結婚したのか。僕たちは大きなハンデを背負わせられている」と泣きを入れるのを見ていて、同じような嘆きは繰り返されるものかと思っていた。

あの頃に、某大手印刷・関西支社の購買課長さんが永年勤続のご褒美の休暇を利用してハワイ旅行を楽しまれ、我がW社の本社にも行ってみたいと言い出さなければ、ハワイには行ける機会は訪れなかったと思っている。我が国で余りハワイハワイと持て囃す人が多いので、私は独り密かに「俺はハワイなんかを通り越して本土に何度も行ったぞ」と密かに優越感を味わっていたのだった。

ではあっても、ハワイ訪問は“Seeing is believing”(百聞は一見にしかず)だったのだ。正直なところを言えば「ハワイにも行って見たいな」との思いはあった。負け惜しみでも何でもなくし繰り返して言うが「ホノルルなんて何処に行ってもあるアメリカの街に過ぎない」だったのだ。