新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

憲法記念日に思う事:

2022-05-04 08:34:35 | コラム
憲法、ゴールデンウィーク、新聞:

何か三題話のようになってしまったが、昨3日が憲法記念日だったのだ。だが、他のことに取り紛れてこれを論じることなく終わってしまい、一日遅れとなった。我が国の憲法は進駐軍によって帝国憲法が廃棄させられて、現在の憲法が昭和21年(1946年)11月3日(当時は明治節)に公布されて、施行が今を去ること75年前の昭和22年(1947年)5月3日となったと朧気ながら記憶している。当時は、我々はどのような経緯で新憲法になったかを知らされてはいなかったと思う。

憲法:
私は昨年の5月3日のブログには以下のように記載していたのだった。

「1947年(昭和22年)だったという事は(旧制)の中学校の3年生だった時のことだ。残念ながら、記憶力を誇る私でも、流石にあの頃の記憶は余り残っていない。だが、新憲法には国を挙げ歓喜していたのは間違いなく覚えている。しかも、今となっては改正反対の旗頭のような共産党が褒め称えて支持していたと記憶している。当時は感覚的には国を挙げて懺悔せよとの風潮があった。例えば、朝日新聞とラジオしかなかった頃の日本放送協会の番組で「真相はこうだ」等で我が国は悪い事をしたのだと思い込まされていたようだった。」

この新憲法を祝って5月3日が休日と制定され、それ以外の経緯の記憶はないが、現在のゴールデンウィークとなった連休が始まったようだった。休むことを知らなかった我が国の人たちにとっては、歓迎すべき事のようだった。だが、神奈川県を支配していた進駐軍は学校には週5日制を導入させたようで、新制の高校となった昭和23年1948年)には土曜日が休みになった。余談だが、蹴球部員だった私には日曜日にも練習があるので休みはなかった。

私は昨年のこの日に初めて憲法についても触れていたが、改正すべき点が多々あるので改正乃至は作り直すのは当然だと考えていたので、取り上げて論じる必要もないことと考えていた。それにも拘わらず、未だに反対の政党どころか嘗て我が国民を思想的に指導(洗脳?)してきたような新聞も未だにあるので、改正も作り直しも遅々として進んでいない。第九条があれば安全だと思っている国民だっているのだから困る。岸田総理だけに押しつける案件でもないだろうが、奮起して頂きたいものだと思っている。

ゴールデンウィークの休日:
私はアメリカの会社に転進する前からこの期間内に何処かに出掛けたことも、出掛けるかと考えたこともなかった。あれほどの混雑を見せられては心ゆくまで楽しめないだろうと怖れていたからだった。車で移動の時代となってからは尚更のことで、自分で運転できないのであっても、あの大渋滞の報道を見せ付けられては意欲が減退するのだった。それに、肝腎なことを後になって言うが、皆で一緒になって混雑を怖れずに行動する気にはなれなかったのだ。

アメリカ人の中に転進して解ったことがあった。それは「彼らは時間とは自分だけの所有物であり、それ故に時間は自分の都合だけで使うのだ」と認識しているので、休暇などは自分の思う時か、取りたい時に取るものだった。それに、仕事の進め方が個人単位であるから、どれだけの期間休暇を取っても、その間に溜まってしまう仕事は、休暇を終えてから自己責任で処理すれば済むことなので、誰にも影響を及ぼさないのである。我が国の会社内のように考えれば「誰にも迷惑はかけないのだ」ということ。

そうは認識できていても、17年間を過ごした日本の会社時代の頭は容易には切り替わらず、休んでいる間に取引先に迷惑をかけてしまうのではないかと、本部や工場が困るのではないかなどと怖れて、1週間もの長期?休暇を取れるまでになるには数年はかかったと思う。だが、本部や工場の者たちの休暇を見ていると、何らの問題もなく物事が進んでいるのを見聞きして「俺が休んでも問題ないようだ」と気が軽くなった。いや、思い過ごしだった。この辺りに「全てを個人の単位と、その責任で進めていく仕組み」の利点があると思う。

新聞とその用紙:
ウエアーハウザーは1970年代後半に日本製紙(当時は十條製紙)と合弁で,
ワシントン州ロングヴィユーにNorth Pacific Paper Company(NORPAC)という新聞用紙の製造の会社を設立して、日本向けの輸出を開始していた。このNORPACの製品をお買い上げ頂く新聞社の関係もあり、東京事務所の社員たちも朝日ではなく読売新聞の購読を開始したのだった。我が家も永年の習慣を捨てて切り替えた。朝日以外を読むようになって何か非常にスッキリしたような気分になった。恐らく、こういう事情がなければ切り替えることはなかったと思う。

読売新聞が急速に部数を伸ばしていったのは、その頃のことだったように記憶する。また、そこには、販売の神様と言われていた務臺さんの存在があったと聞いていた。私は新聞用紙の販売を担当したことはないので、詳細を語るだけの知識はないが、読売新聞は凄い勢いで1,000万部を達成したようだった。その新聞が今やインターネットと言うべきかICT化かデイジタル化の勢いに圧倒されて全世界的に凋落してしまったことは、先日「世界のグラフィック用紙」を論じた時に詳しく述べてあった。

要するに、印刷媒体の衰退である。ウエアーハウザーはその流れに遭って紙パルプ事業から撤退した。また、日本製紙もNORPACを手放したし、買い取った会社は新聞用紙ではなく、現在では成長品種である段ボール原紙に転換したと風の便りに聞いている。事ほど左様に世界の変化は素早いし、規模が大きいのである。事実、ロシアによるウクライナ侵攻は目にも止まらぬ勢いで世界情勢を変えつつあるではないか。