新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

あれから50年経っていた

2022-05-15 08:47:45 | コラム
50年前を個人的に回顧すれば:

沖縄の本土返還から50年経ったと大きく報じられている。偽らざる所を言えば「そうだったのか」なのだ。と言うのは、今を去ること50年前の1972年は、私の生涯で最も大きな節目になった年だったのだので、こんな国家として重大な沖縄の本土返還も私にとっては、さほど鮮烈な印象を与えていなかったようなのだった。その辺りの個人的な事情を回顧してみようと思う。

アメリカの会社に転進してから50年が経っていた:
実際には5月中には71年の11月には提出していた辞表は未だ正式に受理されておらず、退社が認められたのは6月30日付けだった。この半年間に17年も育てて頂いた会社を自己都合で辞めることがどれほど大変なことかを、イヤというほど経験していたのだった。正直なところ、転進する先に6ヶ月も待って貰っているのでは、採用が取り消しになってしまうのではないかという不安も抱えていた。

まさか、自分が大学在学中の1954年頃の大変な就職難の時にあっても、アメリカというか外資への就職は絶対に避けようと決めていたにも拘わらず、17年を経た後になって転進を決めたのだった。為替レートが$1=¥300の時だったので、確かに給与面での条件は良かったが、それが転進を決めた理由ではない。「アメリカの会社で自分に何が出来るのか」と「新天地には何が待っているのか」だけを考えていた。

だが、辞職までに要した半年間には心身共に疲労困憊してしまったし、世の中の変化にまでは注意していられる余裕などまるなでかった。実際に転進先のMeadに出勤したのは8月1日からだった。

伊東市の民宿に休養に:
7月になってからだったと記憶する。半年間の何と形容したら良いのかも解らない、自分が蒔いた種による苦労で心身共に疲労困憊していた。そこで世間に顔が広い知人に頼んで、伊東市の民宿で自分を癒そうと出掛けていったのだった。その途中の乗換駅だった熱海でボンヤリとテレビを見ていると、自民党大会で田中角栄氏が総裁に選ばれている画面が出てきた。万雷の拍手だったと思う。「なるほど。自分が自分のことだけに神経を集中していた間に、政界ではこんな重大な変化が起きていたのか」と圧倒されたのを、未だに鮮明に覚えている。

民宿に辿り着いたのかの記憶はない。夕食は食べた後で倒れるように寝込んでしまったようだった。そして目が覚めたところに宿のご亭主が「やっと目が覚めましたか。今日が何日だか解りますか」と尋ねた。当然、到着した翌日だと思っていたのでそう答えた。しかし、実際には翌々日だったのだ。ご亭主には「翌朝起きてこられないので不思議に思って十分に観察したが異常はないと判断して、何か事情もあったようだから、この儘寝かしておいて上げようと決めた」と告げられた。

この一言で、自分か想定した以上に疲れていたのだったと解ったのは衝撃的だった。自分がお世話になり育てて頂いた会社ではそれほど重要な人材ではないだろうから、辞表は簡単に受理されるのだろうと勝手に決めつけていたのは浅はかだったようだった。この苦い経験から「もう二度と会社を辞めるようなことはしないようにしよう」と心に誓ったのだ。だが、何と2年半後には再度転進することになるとは、陳腐な言い方だが「夢にも考えていなかった」のだった。

Job型雇用の世界に転じた記念の年:
21世紀の現在ではこのような言い方が世間に広まってきた。だが、正直なところ「そういう異文化の世界に入ってしまったのだ」と解るまでは2回変わるまでは全く認識できていなかった。即ち、そこは必要に応じて「即戦力となる人材を会社の内外から手当てして、業務を遂行していく世界」だったのだ。「会社として新卒者を定期的に採用して育てていくこと」など全く考えていない文化だった。

事実、私が採用された2社では「新規の仕事があり、それに適した即戦力して使える人材」を社外に求めていた次第だった。ここで敢えて繰り返して指摘しおくが「そういうjobがあるから適材を求めていた」のであって、そそっかしいマスコミがjobを「雇用」と訳していたのは誤りなのだ。序でで理屈を言っておけば「雇用」を英語にすればemploymentだろう。分かりやすいと思って言えば、私は転進した2社で新規の仕事に即戦力となる人材を探していたのに出会ったということなのだ。そしてインタービューして雇用されたのだった。

50年記念:
このアメリカの企業における異文化については、これまでに再三再四述べてきたので、ここに敢えて説き起こす必要はないと思う。2022年は私にとってはその異文化の世界に身を投じてから50年も経った記念の年だったのだ。振り返ってみれば月並みな言い方になってしまうが、「長いようでアッという間の50年だった」となる。