円安が更に進んで¥147に達したとマスコミが悲観的に:
回顧談である。32年前とは1990年のことである。その頃はウエアーハウザーにとっての対日輸出の絶頂期で、アメリカの会社の中で対日輸出の金額がボーイング社に次いで第2位だったし、私の液体容器原紙事業部は我が国の市場における占有率が45%に達していて、断然たる第1位だった。私もお陰様で大変多忙となって、年間に6回も7回もアメリカ出張を繰り返していた。
その当時の為替レートが¥147だったとの報道だ。だが、幾ら思い出そうとしても、当時に「大変な円安だ」というような危機感はなかったのだ。当時の私は殆どの身の回りの生活必需品は¥140代の為替レートを有効活用して、国内で買うよりも遙かに経済的であるアメリカで買っていた。だが、仕事上の必需品であるスーツだけは国産だった。それは、日本人の中でも小柄な私に合うアメリカサイズ「エキストラ・ショート」には滅多に店頭に出ていることがなかったからだ。
現在のように何処かのエコノミストが「¥150も視野に入ってくる」と悲観的なコメントをされれば、FRBが更に金利の引き上げに打って出るとの観測があるので、日本経済は更に弱くなってしまうかのようなムードが漂ってくるのだ。32年も前の事ともなれば、記憶力を誇る流石の私にも、在職中の1990年に「円安」を嘆く声があったとはどうしても思い出せないのだ。
尤も、アメリカの会社では為替レートがどのように変動しようと、アメリカドルがアメリカドルである事は変わらないので、何ということはなかったのだ。但し、取引先の我が国の企業にとっては原材料費が円安のために高騰してしまうのは大事なので、輸入代行を勤めていた商社と共に、常に敏感に反応しておられ、その傾向を絶えず予測して対処しておられた。
当時でも、牛乳パックのように原材料である原紙を輸入に依存している加工業界では、為替変動分を乳業会社や流通業界向けの販売価格に転移することは容易に受け入れては貰えなかったので、紙器加工業界は常に苦戦を強いられて為替の変動には過敏にならざるを得なかった。
それだけではなく、我々アメリカの企業はコストが上昇すれば、当然のことでその分を遅滞することなく販売価格に転移しようとするので、我々にとっても日本市場向けの値上げ交渉は極めて難事業だった。その値上げ交渉の際に、当時の¥140代後半の為替レートが障害(今風に言えば「高いハードル」か)になっていた記憶が何故かないのだ。不思議な事だなどと考え込んでいる。矢張り、成長期と不況期との違いかなと思うのだ。