新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「夢」(=将来実現したい願望、理想)

2022-10-18 09:25:11 | コラム
私の夢、事業部の夢:

昨夜は実に不思議な夢を見た。それは、家内と外出するので(現実には先ずしないことだが)タクシーを呼んだのだった。やって来た車からは運転手さんが降りてきてドアを開けてくれた。乗り込むと運転席には誰もいないにも拘わらず車は動き出した。後方を見ても誰もいないのに、何処からともなく声が聞こえて操縦を指示してくるのだった。「なるほど、これが未来の自動車だった自動運転か」と納得して、動くが儘に任せていた。

車は何の問題もなく走り、カーブは無理のないスピードでキチンと曲がるし、道路に街路樹の枝だが突きだしていれば淀みなく避けてくれた。実に快適だった。だが、信号があった記憶はなかった。そして、目的地に到着したところで目が覚めてしまった。不思議だったとする理由は「当方は運転免許を取ろうとしたことはないし、車の運転の仕方すら知らないし、自動車産業の動向には殆ど興味も関心もないのに、自動運転の車に乗ることが夢に出てきたこと」なのである。「何でこうなったのだろう」だった。

屡々人々を驚かせていたことはと言えば「車の運転をしないで、良くアメリカで仕事ができていたものですな。不便だったでしょう」という点だった。自動車とは「何処かの方が運転してくれて、自分はその方に任せておけば良い乗り物」だったのだ。

話題を変えよう。「夢を見るのは熟睡していないからだ」と何処かで読んだ記憶があるが、私は前立腺肥大のために夜間の頻尿に悩まされながら、その僅かの間隔しかない睡眠の間でも必ず夢を見ているのだ。その夢の特徴はと言えば「昭和16年に転地療養のためにほんの僅かの間住んでいた家に帰ろうとしても、どうしても帰れずに彷徨っている」か「勤務先である日本の会社の事務所に戻ろうとすると、先ほどまであったはずの私の席がなく、あてどなく事務所の中をウロウロしている」の何れかだ。

私自身が不思議だなと感じているのは、先ずウエアーハウザーの頃のような、アメリカ人たちが「オフィス」(=office)と呼ぶ「個室」に帰ろうとする場面が出てくることが全くない点なのだ。一大決心で辞めてしまった日本の会社時代のことしか夢に出てこないのは、余程アメリカの会社が性に合わなくて、元の勤務先が恋しくて戻りたいのだという、自分では意識していなかった願望があったのかと疑っている。

ここで「夢」(=将来実現したい願望、理想)を語って見よう。実は、件名に取り上げた夢は広辞苑では最後に出てくるアイテム(これがitemの本来の意味の項目だと思うのだが)である。そして、マスコミ式にいえば「貴方の夢は」とは「将来実現したい願望、理想」を指しているのだ。思うに、彼らマスコミが言いたいことは「誰しもが将来自分はこうありたいとの願望を持って生きているのだ」のようだ。

振り返ってみれば「戦時中から終戦後の何もない時代を経て、復興期を過ごしてきて、昭和20年4月の空襲で家から何から一切を失ってしまっていた私には「夢」などを思い描いている余裕も暇(イトマ)もなかった。アルバイトで学費を賄って早く大学を卒業して就職して、早い時点で未亡人になっていた母親を楽にしようと日夜考えていたのが「夢」と言えば夢だっただろう。そこを目指していたので、苦労したとか大変だったとの感覚が無く、ひたすら時が過ぎるのを待っていた。

では、39歳になってからアメリカの会社に転進したのは、そのような「夢」があったのかと問われれば「全くそんな事はありませんでした」と答える他ないのだ。何処からともなく自分に向かって流れてきた運命と運に身を任せて、自分の為と家族を養うためのより良き手段だと考えた結果だった。ではあったが、ウエアーハウザーに移ってからは、部門全体と全員の「夢」というか目標があった。

それは「液体容器原紙の日本市場における#1のシェアーホールダーになること」だった。この大目標を達成するためには、大袈裟に言えば、辛酸をなめざるを得なかった。だが、副社長以下全員が結束して如何なる困難をも踏み越えて目標を達成した。この「夢」が私の人生でたった一度思い描いた願望であり理想だった。しかしながら、それは私個人の夢ではなく、会社であり事業部の目標だったのだ。だが、良く解ったことは「目標があってこそ生き甲斐がある人生になる事」だった。