新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月17日 その2 英語で論文を発表する事の難しさの考察

2022-10-17 14:06:51 | コラム
何故、我が国の大学では英語での論文の発表が少ないのか:

この問題にズバリと明快に答えられる方はそう多くないと思っている。それは「native speakerの学者(査読者でも良いか)に評価して貰え、合格点を取れる英語の文章を書くのは、我が国の学校教育で英語を学んだ方にとっては至難の業になっているから」なのである。

先ず、その難しさの手っ取り早い例を挙げてみよう。私が昭和26年(1951年)に上智大学に入学して、教授である何人かの神父様に「試験の答案は何語で書いても宜しい」と言われた。ところが、サッカー部の上級生に「絶対に英語で書いてはいけない。日本語で漢字を沢山使って書きなさい」と教えられた。英語の答案がダメな理由は「ドイツ人等々の外国人の神父様たちは英語に文法的誤りや言葉の誤用があれば直ちに減点するから」だった。

では、何故日本語の答案が良いのかと言えば「神父様たちの日本語の能力は君等の想像以上に高いが、事が漢字となると流石に十分な語彙がないので、減点することがなく通ってしまうから」であるそうだった。この英語の答案で失敗をした同級生はかなりの数いたのだった。ここでの教訓は「母国語ではない言語では、幾ら勉強してもnative speakerか、それに準ずる人たちには通用しないので、十分に注意すること」だった。

この正反対(「真逆」?)を考えて見れば解ることで、如何に日本語で会話が達者な外国人でも、厳格に審査する査読者から合格点を貰えるほどの人が少ないだろうということ。「外国語での読み書きがnative speakerに劣らない水準に達している人がどれほどいるか」だとご理解願いたい。ウエアーハウザーに在職中の私は周囲に大学院のマスターが何人もいたので、解らないときは「聞くは一時の恥」で、幾らでも質問ができたし、誤りがあれば指摘して貰えるという好条件があった。

英語を母国語している人たちの中にいれば解ることは「日本語とは根本的に発想が違う英語では『そういう表現の仕方があったのか』と嘆息させられる慣用句や口語体があるし、ビジネスの世界で使う公用語の語法等があるので、我が国の学校教育で習い覚えた英語などは通用しないし、ましてやTOEICで高得点だったという程度では追い付かないのだろうと、経験上も認識している。

その難しさは、既に何度か述べたことで、アメリカのその学界の最高権威である学術誌に、某大学のST教授が権威者である教授に勧められて無記名で国籍も知らされない形で投稿された論文は、3人の査読者に「内容は合格だが、話法の時制の一致と定冠詞と不定冠詞の使い方に誤りがあるので訂正の上再提出を」との条件付きで返ってきた事が雄弁に物語っている。多少お手伝いをした私は承知していたとでも、その厳格さに他人である私でさえ震え上がる思いだった。

尤も、私が周囲にいる知識階級の者たちに訊いても「定冠詞と不定冠詞を誤りなく使うのは至難の業」と聞かされていたし、高校の頃には「文法の神」と偽称していた私だが、アメリカ人たちに「英語で何が面倒か」と尋ねられて「時制の一致」と躊躇なく答えたものだった。だが、その裏には「彼らに通じるような正確な言葉遣いができているかどうかは常に不安で、何か突拍子もない珍妙な言葉で表現してしまってはいないか」と何時も不安だった。

上記のような厳格さは、我が国の学界にも企業社会にもあることだと思う。だが、事は英語で母国語の人たちに評価されるような論文を書くことは、かなり難しいことではないのだろうか。私には仮令重荷であっても、英語の論文を数多く発表する必要があるか否かは解らない。と同時に言えることは、UKの“Times Higher Education”のランキングに一喜一憂する必要はないと考えている。あれは白人の世界における彼らのための評価なのだから。極論だが、だからOxfordが最上位に来ているのだ。

とは言って見たが、矢張り英語を母国語にしている人たちの世界にも通用するような英語力を養う必要はあるだろう。その大目的の為には、現在の我が国の英語教育では到底そこまでの水準には容易に到達しないだろう。改善の必要がある。但し、万人がそういう高度な次元の英語力を養う必要はないと断言する。


10月16日のスポーツ

2022-10-17 08:14:21 | コラム
勝った者が本当に強いのか:

昨16日は天皇杯のサッカーと女子の富士通レディースのゴルフを掛け持ちで見ていた。忌憚のない感想を述べていこうと思う。

J2が優勝した天皇杯のサッカー:
申し訳ない次第だが、最近のサッカーの動向にはさして注意していないので、テレビを見るまでJ2の甲府とJ1の広島の対戦とは知らなかった。先ず気が付いたことは、A代表のサッカーとは大いに異なる点があったこと。それは「責任逃れの無意味なパス回しがないこと」と「ピッチを広く使った、恰も思い切ったかのようにGKにまでも含めた後方へのバックウワード・パス(バックパス)が非常に少ないこと」だった。歓迎したい流れだった。

何故か知らないが、寄せ集め世帯であるA代表にサッカーには、昨日の試合のように「何とかして皆で頑張って勝ってやろう」という直向きな攻撃精神(当節流行りのカタカナ語では「アグレッシブ」だが)が見られないのだ。ところが、甲府も広島も全員が「勝とう、優勝したい」という精神を前面に出してイエローカードどころかレッドカードを出されそうな当たり方をして見せたのだった。

「何故、A代表はこういうサッカーができないのか」と思いながら見ていた。特にJ2の甲府には「技術の至らざるところは闘志で補っていこう」とでも形容したいような試合振りだった。その気迫は特に守りに現れて、先取得点をして広島を焦らせていたと見た。広島が後半の終わり頃になって綺麗なシュートを決めて同点にしたのを見ていると、何となく甲府に勝たせてやりたいという気分になっていた。

しかし、ゴルフと掛け持ちだったために、甲府のGKが延長に入ってからのPKを止めた場面も、PK戦でも止めた場面も見損なってしまった。見終わってからの正直な感想は「J1とJ2の差が何処にあるのか」だった。それは、「甲府がJ2のリーグ戦で18位だったというのに、広島が負けてしまったのは何故か」ということ。直向きだったアグレッシブさに、上位リーグのティームが負けるのは何故かと思っていた。もう一つは「A代表には何故直向きさがないのか」という率直な疑問。

アメリカ帰りが勝った女子のゴルフ:
アメリカに行って1回優勝した古江彩佳(22歳、153cm)が18番ホールでバーディーを決めて、1打差で優勝して見せたのは見事だった。アメリカというか世界の強豪が集う中で揉まれてきた成果だろうと、解説者たちは言っていた。その通りだろうとは思う。だが、女子のプロのゴルフ界は古い表現を使えば「群雄割拠」であり、21世紀生まれの若いゴルファーが次から次へと現れて優勝を浚っていっている。男子の世界とは偉い違いだ。

特に私の目に付くのは「昨年の覇者たちが、今年に必ずしも覇者たり得ない状態」であること。アナウンサーたちが「東京オリンピックの銀メダリスト」と紹介する稲見萌音は、今季は一度優勝して見せただけで、昨日も上位10者には顔を見せていなかった。これなどはほんの一例であり、今年になってからは20歳以下の言わば無名の優勝者が何名か現れて、高い身体能力と技術と「恐れを知らない強み」を見せてくれている。

私はこのような若手の台頭の意味するところは「前年度に勝って見せていた若手には、本当の意味での『真の技術に裏付けされた強さ』が備わっていたのではなく、怖い物知らずの勢いがあっただけだったので、同じような勢いだけで上がって来た新人たちに勝てないのでは」と疑いたくなった。だから、「岩井明愛はアメリカで揉まれてきた古江に最後の最後で追い抜かれたのではなかったか」と考えながら優勝スピーチを聞いていた。

そこで思い出したことがあった。それはウエアーハウザージャパンにいたスポーツ通が1980年代に指摘していた「女子の個人種目の選手たちが強いのは、女子にはプロ野球も相撲もないので、優れた人材が限られた種目に集中して集まるから」だった。あれから40年近くなった現代にも通用するのではないだろうか。