新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

カタカナ語の濫用を戒めたい

2022-10-16 10:54:02 | コラム
日本語に愛を持てない者は去れ:

北方謙三氏は言った:

 以下は私が昨年の10月15日に発表したものである。今になって読み返してみると、今日でもそのまま主張したい内容である。そこで、少し手を加えて再録してみようと思った次第だ。願わくは、熟読玩味して頂き、私の主張をご理解願いたいのである。

北方氏は週刊新潮に連載しておられるコラム「十字路が見える」で件名のように明快に指摘しておられた。21年の10月21号に掲載された分である。私にしてみれば「カタカナ語排斥は孤軍奮闘ではなかった。有り難い」との思いで読んだ。言うまでもない事でカタカナ語に関して、である。カタカナ語(北方氏は「横文字」と表現しておられる)については、2ページ目に書いておられることが我が意を得たりなので、少し引用してみようと思う次第だ。

>引用開始
まず、訊きたい。インバウンドとはどういう意味なのかな。もし外国人旅行者のことを言うのなら、そのまま日本語で言った方が、はるかにわかりやすくないか。多分、日本語では表現できない、深い深いところで大いなる意味を持っているのだろうが、それならそれで、遣っている人たちがきちんと説明しろよ。しかし、必然性の問題だな。横文字にするのに必然性があるとしたら、日本語の方にそうとう大きな問題がある、ということだろう。日本語で言えないので、インバウンドなどと言ったりするのだろう。インバウンドが外国人旅行者だとしたら、それほど日本にとって不都合な人たちになるのか。

いやだなあ。私は、ほんとうにいやだよ。テレビのニュースでも、平然とインバウンドと言っている。せめて公共放送ぐらいは、率先して日本語を破壊するようなことは、やめてくれないかな。疫病関係の言葉も、横文字で表現して、括弧の中で日本語で説明するという滑稽さである。三密を、人流を、横文字にしてくれ。できないなら、ほかのもするな。特に公共的な立場にいる人、日本人だろう。日本語を遣おうよ。君もだぞ。

<引用終わる

「北方様、よくぞ言って下さいました」と心の底から賛成すると同時に感謝申し上げたい。私が長年主張してきたことが「日本人だろう。日本語を遣おうよ。君もだぞ」なのであるから。北方氏のようなカタカナ語にすれば「インフルエンサー」とでも言えるだろう著名人で、横文字(=カタカナ語で良いと思うが)を排斥しておられる方は極めて少ないと思っていたし、自分自身は孤軍奮闘であると思ってきた。何分にも「嫌味だ」とまで言われた経験まであるのだから。

念の為に振り返っておくと、私は「インバウンド」は既に批判してあった。それは、北方氏も指摘しておられたように“inbound”という単語には「外国人旅行者」などという意味はないのだから。もしかして“inbound traveler”とでもいう熟語があって、flip chartのflipだけを切り取って「フリップ」にしてしまったのと同様な手法かも知れない。「ウイルス感染の再拡大」を簡単に言えば「はね返る」という意味のreboundから取って「リバウンド」としたのも同様な手口だ。「リバウンド」だけでは何が跳ね返ったのか、再度拡大したのか特定できていない。

 私は1990年からカタカナ語というべきか、英語の単語をそのまま日本語の中に組み込んで「粋がっていたり、格好が良いと錯覚したり、時代の先端を行っているとでも思い込んでいる現象を批判してきた。そんな格好の良さなど不要だ」と言って。ところが、この格好付けの傾向は拡大する一方で、21世紀の初め頃には私が一寸集めてみただけで200語近くにも増えていた。2008年に行ったプリゼンテーションでは、大雑把に「造語(和製英語)」、「ローマ字式発音」、「言葉の乱造・濫用・借用」、「合成語・複合語」に分類しておいたが、これらのどの分野でも新語が続々と現れている。

このようなカタカナ語化された英語の単語の例はこれまでに数限りなく取り上げてきた。「インバウンド」も勿論そのうちに入っていた。そこで、今回は近頃特に気になっている例を一つだけ挙げておこう。それは「メイン」である。これは既に解説したことで「如何なる辞典を見ても『名詞の前に使う』形容詞」とある。即ち、main streetやmain dishやmain entryのような形だ。

だが、多くの方は「主に」や「主として」や「主体にして」の意味で、言わば名詞形に使っているのだ。また同じ事を言うかと思われるだろうが「このような過ちは単語の意味だけを覚えさせて、文章の中でどのように使うべきか」を教えていない英語教育の欠陥であると思う。第一、日本語化してしまったとは言え、何も「主に」を「メイン」と言う必然性はないと思う。

一つだけとは言ったが、もう一例挙げたくなった。それは「ウインウイン」である。この表現は故安倍元総理が好んで使っておられた印象が濃厚だ。これも「名詞の前に使う」のが正しい英語の在り方だ。即ち、We were in win-win situation.のような文章になるのだ。「ウインウイン」単体で「双方が満足できる状態」という名詞形で使ってはならないのだ、英語では。

私はこういう現象が起きる最大の原因に「我が国の至らざる英語教育、就中単語を覚えさせようとする教え方」を挙げてきたし、この見解を変える気はない。単語を沢山覚えさせることは結構なことだ。だが、単体で覚えさせるだけで、流れの中での使い方を教えず、口語体、文語体、俗語、慣用句等に分けて覚えさせないのが困るのだ。長い年月アメリカの大手企業の中にいて、支配階層の人たちと語り合い話し合っていても、collaboration, overshoot, quest, renewal openなどと見たことも聞いたこともない表現が、スラスラと出てくるのには恐れ入るだけだ。日本語にしようよ。

 参考資料:週刊新潮 21年10月21日号


世界の大学ランキング #2

2022-10-16 08:12:29 | コラム
我が国の大学では何故英語の論文が少ないのか:

この件では、昨日やや簡単に取り上げてしまったので、我が国の大学の先生たちを及ばずながら擁護しようと思うのだ。昨日引用したST教授が指摘しておられた事は、拡大してみれば「一度日本語で発表された論文を、その都度英語に訳して発表している訳ではないので、海外から見れば論文が少ないことになる」のである。

だが、これだけでは未だ説明不足だろうと思う。論文について、私が何人かの先生方の論文をお手伝いした経験から言えることは「参考文献一覧」が大変な量になっていることを先ず取り上げたい。引用した文献を詳細に記載するこれを怠ると「剽窃」になって大問題になってしまうのだ。これらを間違いなく掲げるだけでも大いなる労力を要する作業になる。それらを英訳せよとなると、別な問題も生じるのだ

即ち、他者の論文か著作の題名から正確に英語にしなければならないのだ。既にそれらの英語訳があるかどうかも調べねばならず、無い場合には自分で正確な英語に訳さなければならないのだ。容易ならざる大変な作業である。言うまでもない事は、英語を母国語にしている人たち並みの英語力が必要になってくると言う点なのである。

論文本体を英語に訳すのであれば、英語の専門語などに誤りがあってはらないのだ。だが、それ以上に重要なことは絶対に文法的に正確であり、如何なる誤りも許されない点なのである。これまでに何度か回顧したことだが、2002年に私がお手伝いした某教授がアメリカの権威ある学術誌に寄稿された論文が「内容は合格だが、時制の一致と定冠詞と不定冠詞の使い方に誤りがある」と訂正を求められ、差し戻されたことが、その内容のみならず文法を疎かにすることは許されないことを実証していた。

この点は、仮令native speakerの学者たちにとっても難しい課題なのだ。念の為に確認しておくと「定冠詞と不定冠詞を正確に誤りなく使うことは、native speakerたちにとっても非常に難しい問題」なのである。「時制の一致」にしたところで、私の経験の範囲内でも、余程注意していないと誤りを指摘されてしまう結果になった。

このような難関があれば、我が国の大学教授や学者の方々が一度日本語で書いて発表された論文を、上述の条件を満たした英語にして発表されないのも無理はない事ではないかと思うのだ。このような事情を知るだけに、私は日本の教授や学者の方々に同情的にならざるを得ないのだ。このように言えば、我が国の先生方を庇い立てしていることになるのかも知れないが、実情を知れば知るほど擁護したくなる次第だ。