新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月23日 その2 22日のスポーツから

2023-07-23 11:17:23 | コラム
蹴球の2試合で一発退場のレッドカードが:

22日の午後は暑さを避けて、室内でのスポーツ観戦で過ごしていた。「蹴球」とは言ったが戦前からサッカーは「ア式蹴球」で、ラグビーを「ラ式蹴球」などと呼んでいたものだった。この両方の外国との試合があった。しかも、両方で一発退場のレッドカードが出た。その辺にも触れて振り返ってみよう。

対サモアのラグビー:
時間的にはラグビーが先だった。既に触れたことで、私はラグビーでは日本代表ではあるが、あれは「日本」という名称のクラブだと看做している。ラグビーの国際的組織が「外国人が入っていても一国の代表」と認めているのだから、何か批判しても無駄だと思っているが、どうしても違和感が残る。

昨日の試合はW杯を間近にして、同じ予選の組に入っているサモアとの練習試合だった。記憶は確かではないがランキングは近かったと思う。接戦のような展開だったが、帰化した中心選手であるリーチ・マイケルがTMOと称するヴィデオ判定で「ハイタックル」を取られてレッドカードを出され、日本代表は14人で試合を進めることになった。

反則に取られる場面は何度も見させて貰えたが、意図的ではないとは見えても、リーチの当たり方は偶発的に見えても、反則を構成していたので、仕方がないと思ってみていた。ラグビーでは副審的な存在の線審に権限があり、TMO以前でも主審に進言していた。判定が機械化されては審判という名の人の目で見るよりも、厳密に状態を判断できるのだ。ラグビーのように瞬間的に大勢の密集ができてしまうのでは、TMO導入は時代の流れで逆らえないだろう。

前半30分で14人になったところで観戦を止めた。日本代表は22対24の接戦で負けたのだが、私は人数が少なくなったために奮起して不足分を補うだけの力と精神力が出たのだと思っている。と言うことは「どちらの実力が上かは解らないので、本戦では再び大接戦になるだろう」ではないのか。一言言えば「何時までリーチ・マイケルに依存するのかな」である。

FIFAの女子W杯の初戦:
私は今でもあの12年前のW杯制覇の女子代表が、史上最強で最高だと思っている。その基準であれ以降の「なでしこ」という愛称の女子代表を見ると、「もう一つ感」が拭えないのだ。しかも、この試合の数日前にNHKだったと思うが、あの澤さんが後ろ向きで宮閒のCKを鮮やかにゴールに流し込んだ場面まで見せてくれていたので、どうしてもあの最強ティームと比較してしまうのだ。

考えてもご覧なさい。澤、宮閒、坂口、川澄、鮫島、近賀、永里、丸山、熊谷、石清水、大野、海堀等々が揃っていたのだから。彼女たちの「こんな場合でもパスを回せるのか」と感心させられた技術というか足技や、宮閒の見事なフリーキック、澤のキャプテンシップ(キャプテンシーは誤り)と比較すれば、FIFAのランキング11位の今回の代表が何処までやってくれるかの不安がなかった訳ではない。

前半は未だ固かったので、何もできない77位のザンビア代表を相手にして空回りしていただけだった。初代表という田中美南がシュートを決めて喜べば、ヴィデオ判定でオフサイドを取られて無効。言うなれば「写真判定」の恐ろしさで、一寸(イヤ1mm)でも一線を越えていればオフサイドを取られるのだった。無情だとは思った。でも、ティーム全体に焦りが見えていなかったのは良かったと思う。

そこまででフト考えたのだが「自分は昭和20年(1945年)から蹴球を始めて、2005年で止めるまでに中学、高校、大学、藤沢四十雀、湘南の「全国制覇し損ないの会」を通じて、オフサイドを取られた経験がなかった」のだった。最前線に浮いているポジションにいたポイントゲッターをやっていたのは関東大学リーグ4部という今はなくなった組織での2年ほどだったが、前に出すぎた記憶はなかった。

「なでしこ」である。かなり高度な技術を持っていて、球慣れも十分で綺麗で正確なパス回しもできていた。だが、男子と同様で強力なポイントゲッターが未だ育っていないし、12年前の人たちほどの正確なパス回しにはなっていないと見た。試合に出ていた11人全体の粒は揃っていたが、それ即ち澤穂希のような全体を引っ張っていこうという意識を持った者が未だ育っていない「発展途上」と見た。

W杯で予選突破するまでに育って行くだろうし、解説に出ていた安藤だったかから「一試合ごとに成長していったと自覚した」と回顧していた。W杯本番での試合の経験こそが、最高の練習であり、自己啓発の場になるだろう。

レッドカードは相手側ザンビアのGKがペナルティーエリア内で植木を倒したために出されたのだった。この場面では珍しい現象で植木(だったと思うが)PKを失敗したのだが、ヴィデオ判定では交代で入ったGK賀早く動きすぎたのでやり直しとなり、それを決めて5点目が入ったところで試合終了だった。主審が女性だったから厳しい判定が出たのではなく、機器は細かい反則でも見逃さないという「時代の流れ」を感じた場面だった。

最後に彼女ら代表が予選を突破して、12年前の歓喜の状態を再現してくれることを祈念して終わる。


給料が上がらない時代

2023-07-23 07:52:26 | コラム
「経営者の劣化」だけが原因ではないのでは:

これまでずっと「何十年もろくに給料が上がらないのは『経営者の劣化が主たる原因であり』社員たちに責任はない」という風に論じてきた。40年ほど前には方々の若手社員たちから「課長たちから上の人たちを今のうちに何とかしておかないと、我が社は必ず衰退していく」と聞かされていた。そして、長い間給料が上がらない不況の時代に入っていった。「彼らが言う通りだった」とも思わせられた。

だが、良く考えてみるまでもないことで、給料が上がるように努力しているのは(我が国の会社組織内では)現実には実務の現場で働いている社員たちであり、実務から離れているとしか見えない管理職や取締役たちではないとしか思えないのだ。1972年にアメリカの会社に転出して、外から見ていると「本当に経営者たちの劣化だけが原因と言えるのかな」と思うようになった。だが、社員たちの味方のように言ってきた。

それと言うのも、3年も経たずに離職する者たちが増える傾向が顕著だとか、本当にやりたいことができる場ではなかったとか、最近では何かと言えば(何のことか良く分からない「パワハラ」だのなんのと言う)上司を非難する者が多くなったと聞けば、会社そのものの劣化ではないかとすら疑いたくなった。昭和の時代のように「会社に対する忠誠を誓う時代」ではなくなったのではないだろうか。

一方、翻って20年以上も勤めたアメリカの会社ではどうなっているかを考えてみよう。誰が何処を見て言いだしたのかも知らない「job型雇用」の世界の話だ。自分にその形式が当て嵌まると仮定して考えてみよう。我が国との大きな違いが数々あるが、私はその最たる点が「人事部がないこと」だと思っている。即ち、評価し査定するのは直属上司の事業部長であり、その基準は「職務内容記述書」であることだ。

その通りか、その範囲内及び範囲外の分野までで見るべき実績を残せたか否かが査定されるので、過去1年間の自分がどれだけのことを成し遂げてあったかは先ず解っている。即ち、他者である人事部がなくても「成し遂げていたか、いなかったか」は殆ど自覚しているのだ。要するに、全ては自分の責任だと解っているのだ。しかも、査定は会社全体の実績には左右されないし、第三者の評価とも殆どの場合無関係なのだ。駄目ならば馘首もある世界だ。

我が国の会社を考えてみよう。査定の評価が低かったからと言って「馘首」はあり得ないのではないだろうか。こちらの方が余程有り難く人情味がある世界だと思う。上司は部下を指導し育てていく責任があるのだから、アメリカよりもずっと情があって、法的にも“You are fired.”などと言えない世界だと思う。人が人を感情抜きで評価するのは難しいと言われている。

であれば、アメリカ式の「職務内容記述書」のような基準を上司と各社員双方の了解の上で設定しておくのも一つの方法かと思う。だが、こういうやり方が我が国に適しているのか、短期間に我が国に根付くのかなと考えてしまう。「job型雇用」などと言えば聞こえは良いが、アメリカの会社組織とは「中途採用」の世界なのだ。

我が国式の年功序列に基づいて昇任した経営者が劣化してしまったのであれば、それも問題だと思う。だが、何処かの中古車会社のように「経営者になってはならなかった者が経営すれば、会社は劣化すると実証されたのではないか」と思うのだが。