学校健診なんて止めてしまえ:
週刊新潮8月21日号の「医の中の蛙」で、里見清一氏が興味深いことを言っておられると教えられたので、早速読んでみることにした。「面白い」はその人が使った言葉の綾で、里見氏が指摘しておられたことは、私に言わせれば本当に嘆かわしいことだった。「誰が、何の為に我が国をこのような状態に持ち込んだのだろうか」と嘆かせられるものだった。
それは「保護者が学校健診で心臓の鼓動を聞くことや背中を触る時には児童の上半身を裸にすることなく、上着の着用を求める声が上がっている」のに対して、医師会からは「それでは健診が出来ないから、止めてしまえ」とまで言われるようになったという事だった。里見氏の言わんとされたことを勝手に察してみれば、医師が裸の児童の体に触れることが「何とかハラ」に当たるとでも言いたい保護者がいるという事なのだろう。
何と言って論評すれば良いのか分からなかったが、私は「言葉を失うほどの衝撃」を受けたし、何という愚かな者たちが親になって出てくる時代になったのだろうかと「時代の悪い変化」を痛感させられていた。これほど常識が完全に欠如した人たちを生み出したのは誰だろうか、その人たちに何を教えればこうなったのだろうかと嘆いていた。
家内ともこの記事のことを語り合ったのだが、その際に出た問題点は「そんなことをお医者様に向かって言う人たちは、産婦人科に診察を受けに行った時はどうする気なのだろうか」だった。ところが、その直後に伺った眼科で長年年診て頂いている先生(女医さんである)に、時間の無駄をしない程度にこの話題を出してみた。すると、先生は「もう、産婦人科ではそういう問題が出ていますよ」と言われたのだった。「何をか言わんや」である。
里見氏の文章の中には「ハラスメント」は出てきていないが、私は今日のように何でもかんでも「ハラ」を付けて非難し攻撃する流れを、「何とも言えないイヤらしさであり、品位かがない」と感じるし、苦々しい思いで見ている。「パワハラ」だの「カスハラ」だのと、何処かで誰かが次から次へと奇妙な造語を作っては世間に広めていくのに、嬉々として飛びついて何らの批判もなく広めていく報道機関にも、あらためて愛想を尽かしたくなる。
私が言うまでもないだろうが「パワハラ」などと言い出せば「上司は部下を叱ることも出来なくなる」と言われているし、店先で店主や店員に言われなき難癖を付ける不心得者の行為を「カスハラ」などと言われては、そのカタカナ語が何を意味するかを理解できるまでに時間がかかってしまった。何でも「ハラスメント」を短縮して「ハラ」にすれば良いと思っているのも、カタカナ語排斥論者からすれば「情けない知識と理解の不足だ」となる。
私はこの「ハラ」というカタカナ語を作り出した人(たち?)は英語の“harass”の意味をチャンと辞書を引いて調べた上で使ったのかと疑っている。正直に言えば、私は長い間のアメリカ社会の暮らしの中でこの言葉を使ったというか、使う必要に迫られた経験がなかった。即ち、日常的に使われてはいないと認識している。そのような堅苦しい言葉を日常的に使ってしまう感覚は如何なものかと思う。
因みに、ジーニアス英和には”harass“は「(人)を厄介なこと・心配なことで(絶えず)困らせる、(繰り返し)悩ます(with, by)」と出ている。二番目に「敵を(繰り返し)攻撃する、急襲する」が出てくる。これでは「パワハラ」にも「カスハラ」にも当て嵌まっていないのではなかろうか。私は35年ほど前に本部で初めて”sexual harassment”というのを聞いた。
そういう意味の単語を今日のような形にまで広めたのは凄いが、学校健診をさせないような事まで言い出すような人たちが出てくるような教育をしているのだろうか。もしそうならば、そのような時代の流れを産み出したのは何処の何方なのだろうかと、私は憤慨しているのだ。
何もこの里見氏が採り上げられた問題だけに限らず、常識が欠如した、理屈にもなっておらず、理論的ではないことを周囲の迷惑を考えずに声高に言い出す階層(年齢層か?)を生み出してしまった現在の我が国と、その将来に限りない不安を感じているのだ「こんな日本に誰がした」と。