日本語の特徴は柔軟性に融通無碍な所にあり、カタカナ語の粗製乱造と濫用の原因となった:
私は戦前の昭和14年(=1939年)に小学校に上がっていたのだが、その頃の日本語はカタカナ、ひらがな、漢字で出来上がっていたと記憶している。カタカナ語などは戦前だった事を考えても、記憶にはなかった。だが、その頃後楽園に見に行った職業野球での用語は例えば「ゲッツウ」のようなカタカナ語だったし、未だストライクやボール等は使われていた。私は昭和20年(1945年)に中学校に入学して生まれて初めて英語に接した。
記憶をたどれば、これらの野球用語は敵性語だからというので「ダメ」だの「ヨシ」に変わったし、白系ロシア人のヴィクトル・スタルヒン投手が須田博に改名させられたのは開戦後だったのではなかったかな。とは言うが、これらの野球用語がカタカナ表記だったかどうかまでは知らない。
私は今ではカタカナ語排斥論者等と称してはいるが、カタカナ語(英語の単語をカタカナして使う事)を意識するようになったのは、昭和30年(=1955年)に新卒で就職した後からの事。それはその国策パルプ(現日本製紙)の販社である日比谷商事が戦前の三井物産の第二会社だった事もあって、幹部の方々には超インテリが揃っていた。その為か、動もすると英語の単語がそのままの形で話の中に入ってきていたからだった。
だが、覚えていたのは「ドラスティック」と「ケースバイケース」くらいだが、他にも出てきていたとは思う。でも、当時はただ単純に「流石は元三井物産で、何とも近代的でスマートで格好が良い方々だ」いう程度の印象しかなく、特に何とも思っていなかった。
それが、1972年に17年半もお世話になった会社を辞めて、アメリカの会社に移ってからは否応なく仕事では英語が主体になった。そこで、「何故、話や書き物の中にカタカナ語を交ぜようとするのだろう。日本人ならば普通に漢字とひらがなでの表現を使っていれば良いじゃないか」と何となく不快に感じるようになっていた。
そして、その不快感が昂じて1990年の4月から業界の専門誌にエッセー風の連載を開始してからは「英語の単語をカタカナ語化して語るか表記して使う人たちは、そうする事が何か近代的でありスマートであり、知性の高さを誇示する手段にでもしようと思うのか。私はそのような日本語を使うのは虚飾の近代性であり、知性と教養の程を表してはいない」と書くようになっていた。
そこまで言う根拠には「カタカナ語を使う人々が英語の単語の本来の意味を正しく理解できていない例が多いし、英語の単語をこれ見よがしに(聴けと言わんばかりに)使うのは単なる『ひけらかし』にも聞こえたし、そのようにも見えたから」なのである。
私が問題点だと認識していて指摘する事は「日本語の柔軟性と融通無碍な点を悪用して必然性に乏しいカタカナ語を乱造するな、濫用するな、交えるな。勝手に日本語を乱すな」なのである。
さらに「外来語の助けを借りなければ、自分の思う事が言えないのをおかしいと思わないのか」という怒りにも似た感情もあった。但し、外来語も時と場合を心得て使えば、鮮やかな表現が出来る事も認識はしていた。
上述の連載を開始した1年後に休暇を取って生まれて初めてヨーロッパを旅した事があった。最初に訪れたのがパリだった。1991年11月だった。その時にお世話になった某船社のパリ支店長さんとその(フランス人の)秘書さんと昼食会で語り合った事があった。その際に、カタカナ語排斥論者は気になっていた「フランスでは無闇に外来語を使用ない事と法律で制限したのは本当でしょうか」と彼女に尋ねてみた。因みに、会話は全て英語だった。
答えは非常に明快だったのがとても印象的だった。「確かに法律がある。だが、私はこれが政府の誤った判断であり規制であると思う。理由はそもそもフランス語には言葉の数が英語程多くないので、思ったようなニュアンスを正確に出す為には英語等の外来語の助けを借りる必要があるのだ。故に私は躊躇なく外来語使う場合がある」と言われた。
私は彼女が言った事の内容の正否は兎も角、このように堂々と自国語の問題点について自分の意見をハッキリと言う姿勢には感銘を受けたのは言うまでもない事。言いたい事は「外来語(カタカナ語)を交えるのならば、彼女のような正々堂々たる信念を持って欲しいのである。単なる虚飾や格好の良さを見せようとか、英語に通暁しているかのように見せたいのであれば「それは駄目だ。認める訳にはいかない」と断じるし、これまでも否定してきた。
要点は「自国語、即ち日本語を大切にしよう」なのである。それと同時に「単語を覚えることに重点を置く英語教育を何時になったら改善するのか」と強調したいのだ。試験の為の英語を教え、思うように言いたいことが言えるようにならない教え方をして、その方式を小学校までに引き下げているのだが宜しいのか。「外国人と会話が出来なくて恥ずかしかった」と見当違いなことを言って嘆くような人たちを育てないようにする事が肝心なのである。