新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月22日 その2 何故外来語(カタカナ語)が濫用されるのか

2024-04-22 15:33:03 | コラム
日本語の特徴は柔軟性に融通無碍な所にあり、カタカナ語の粗製乱造と濫用の原因となった:

私は戦前の昭和14年(=1939年)に小学校に上がっていたのだが、その頃の日本語はカタカナ、ひらがな、漢字で出来上がっていたと記憶している。カタカナ語などは戦前だった事を考えても、記憶にはなかった。だが、その頃後楽園に見に行った職業野球での用語は例えば「ゲッツウ」のようなカタカナ語だったし、未だストライクやボール等は使われていた。私は昭和20年(1945年)に中学校に入学して生まれて初めて英語に接した。

記憶をたどれば、これらの野球用語は敵性語だからというので「ダメ」だの「ヨシ」に変わったし、白系ロシア人のヴィクトル・スタルヒン投手が須田博に改名させられたのは開戦後だったのではなかったかな。とは言うが、これらの野球用語がカタカナ表記だったかどうかまでは知らない。

私は今ではカタカナ語排斥論者等と称してはいるが、カタカナ語(英語の単語をカタカナして使う事)を意識するようになったのは、昭和30年(=1955年)に新卒で就職した後からの事。それはその国策パルプ(現日本製紙)の販社である日比谷商事が戦前の三井物産の第二会社だった事もあって、幹部の方々には超インテリが揃っていた。その為か、動もすると英語の単語がそのままの形で話の中に入ってきていたからだった。

だが、覚えていたのは「ドラスティック」と「ケースバイケース」くらいだが、他にも出てきていたとは思う。でも、当時はただ単純に「流石は元三井物産で、何とも近代的でスマートで格好が良い方々だ」いう程度の印象しかなく、特に何とも思っていなかった。

それが、1972年に17年半もお世話になった会社を辞めて、アメリカの会社に移ってからは否応なく仕事では英語が主体になった。そこで、「何故、話や書き物の中にカタカナ語を交ぜようとするのだろう。日本人ならば普通に漢字とひらがなでの表現を使っていれば良いじゃないか」と何となく不快に感じるようになっていた。

そして、その不快感が昂じて1990年の4月から業界の専門誌にエッセー風の連載を開始してからは「英語の単語をカタカナ語化して語るか表記して使う人たちは、そうする事が何か近代的でありスマートであり、知性の高さを誇示する手段にでもしようと思うのか。私はそのような日本語を使うのは虚飾の近代性であり、知性と教養の程を表してはいない」と書くようになっていた。

そこまで言う根拠には「カタカナ語を使う人々が英語の単語の本来の意味を正しく理解できていない例が多いし、英語の単語をこれ見よがしに(聴けと言わんばかりに)使うのは単なる『ひけらかし』にも聞こえたし、そのようにも見えたから」なのである。

私が問題点だと認識していて指摘する事は「日本語の柔軟性と融通無碍な点を悪用して必然性に乏しいカタカナ語を乱造するな、濫用するな、交えるな。勝手に日本語を乱すな」なのである。

さらに「外来語の助けを借りなければ、自分の思う事が言えないのをおかしいと思わないのか」という怒りにも似た感情もあった。但し、外来語も時と場合を心得て使えば、鮮やかな表現が出来る事も認識はしていた。

上述の連載を開始した1年後に休暇を取って生まれて初めてヨーロッパを旅した事があった。最初に訪れたのがパリだった。1991年11月だった。その時にお世話になった某船社のパリ支店長さんとその(フランス人の)秘書さんと昼食会で語り合った事があった。その際に、カタカナ語排斥論者は気になっていた「フランスでは無闇に外来語を使用ない事と法律で制限したのは本当でしょうか」と彼女に尋ねてみた。因みに、会話は全て英語だった。

答えは非常に明快だったのがとても印象的だった。「確かに法律がある。だが、私はこれが政府の誤った判断であり規制であると思う。理由はそもそもフランス語には言葉の数が英語程多くないので、思ったようなニュアンスを正確に出す為には英語等の外来語の助けを借りる必要があるのだ。故に私は躊躇なく外来語使う場合がある」と言われた。

私は彼女が言った事の内容の正否は兎も角、このように堂々と自国語の問題点について自分の意見をハッキリと言う姿勢には感銘を受けたのは言うまでもない事。言いたい事は「外来語(カタカナ語)を交えるのならば、彼女のような正々堂々たる信念を持って欲しいのである。単なる虚飾や格好の良さを見せようとか、英語に通暁しているかのように見せたいのであれば「それは駄目だ。認める訳にはいかない」と断じるし、これまでも否定してきた。

要点は「自国語、即ち日本語を大切にしよう」なのである。それと同時に「単語を覚えることに重点を置く英語教育を何時になったら改善するのか」と強調したいのだ。試験の為の英語を教え、思うように言いたいことが言えるようにならない教え方をして、その方式を小学校までに引き下げているのだが宜しいのか。「外国人と会話が出来なくて恥ずかしかった」と見当違いなことを言って嘆くような人たちを育てないようにする事が肝心なのである。


カタカナ語の問題点を考えて見よう

2024-04-22 06:58:34 | コラム
無駄な抵抗かも知れないが言うべき事は言っておこう:

カタカナ語排斥主義者としてはどうしても気になるので取り上げていこうと思う。「奇妙なカタカナ語の濫用は日本語を破壊してしまうかも知れない危険性がある事」を認識して貰いたいから言うのだ。

こんな事を何度繰り返して主張しても一般受けしないのは百も承知だが、言っておこうと思う。何故こんな言葉を使う習慣が若い年齢層にまで普及したのは宜しくないと見ているし、単語重視の英語教育に責任があると非難したいし、日本語の将来が不安に思えてならないのだ。

早朝のニュース番組で若いお母さんがスーパーマーケットでお惣菜を買って「ボリュームがあってクオリテイーも高くて、ジューシーで好き」と言っている所を流していた。この三つは今やごく普通の日本語になってしまっている感があって、腹立たしいというか残念に思えて堪らない。何故ごく普通に「量が多く、質も良く、水分が多いのが好み」と言えなくなったのだろうか。

「ボリューム」とはvolumeの事だろうが、この単語の本来の意味は「容積」か「体積」であって「数量」の意味では余り使われてはいない。Oxfordに出てくる説明は「ある物質が満たす場所、広さ等」が出てくる。理屈を言えば「数量」を言うのならばquantityの方が適切なのだ。だが、カタカナ語では「ボリューム」が普及してしまったし、何処かの跳ねっ返りが「ボリューミー」等という戯けた言葉まで創造してしまった。

「クオリテイー」も近頃「品質」の意味で目覚ましく普及し始めた。Oxfordに最初に出てくる意味は「ある物と比べた場合の基準」なのだ。何も格好を付けてクオリテイー等という必然性などは何処を探しても見当たらないと思う。

「ジューシー」も遍く普及してしまった。だが、長い年月アメリカ人の中で過ごし共に食事をしても、juicyという表現を聞いたことがなかった。それでも我が国では標準的カタカナ語になってしまった。“juicy”本来の意味は「果実または野菜に含まれる液体」であり、水分が多いというのは「何か調理された食べ物から液体が出る」という事。思うに「パサパサではない」の意味で使われているようだ。

こんな揚げ足取りと非難されそうなことを言うのは他でもない「単語重視の英語教育の結果で、偶々覚えていた単語の意味が表現したい事象を表してくれると思って使ったのだろう」と考えている。何故広まってしまったかと言えば、テレビに出てくる者たちが使えば「外国語の学習では耳から入れるのが非常に有効」という原則が当て嵌まってしまったのだろう。「なる程。あのタレント様(有名人)が使ったのなら、私も」となったのではないか。

こう考えれば、不肖私などはついぞ使えたことがなかったcollaboration(「~と共に働く」という意味)なる文語調の難しい単語をいとも容易くカタカナ語化して広めただけではなく「コラボ」という省略形まで作り上げてしまったことなどは恐るべき事だと、排斥論者は恐れ入っている。Oxfordにも真っ先に“to work together with 誰それ”とある。会話などでは、このように平易な単語を使って言うのが普通だと知っていてもらいたい。

何度でも言うが「私は日本語には漢字を使う文化がある。それを知らずして何か格好が良いとでも勘違いして英語の単語をカタカナ語化して使うのは控えるべきだ。カタカナ語を多用すれば日本語を破壊してしまいかねない事をキチンと意識して貰いたい」のである。この意味では「テレビ局には厳重に注意したい」のである。