新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月30日 その2 「柔道の永山竜樹の準々決勝での敗戦について」の補足

2024-07-30 10:19:15 | コラム
オリンピックの柔道にはチャレンジ制度がないのか:

NPBの野球中継を見ておられる方は先刻ご承知だろうが、今や審判の判定に対する異議申し立て(チャレンジ=challenge)が頻繁に行われる時代になった。アナウンサーたちは「リクエスト」と称しているが、それは「ビデオ判定の要求」と言って欲しいのである。私は正しくは「判定に対する異議申し立てがありました」であるべきだと思っている。

そこで、この英語では“challenge”を意味する「異議申し立て」について考えてみよう。どうやら、オリンピックの柔道では永山竜樹の例を見ても「ビデオ判定」または「意義申して」の制度は採用されていなかったとしか思えないのだ。国内では既にCARE(=computer aided replay)が採用されているかのようだが。

オリンピックの柔道では、あのシドニーオリンピックでの100kg級の篠原信一に対する誤審があってから、我が国では採用されたと聞くが、国際柔道連盟(IJF)は未だ採用していないらしい。だが、(アメリカン)フットボールでは監督が3回までのチャレンジが認められているし、ヴァリーボールでもバスケットボールでもテニス等々以外でも、異議申し立てをしてビデオ判定が要求できるようになっている。

私は「IJFは我が国が柔道の国際化を願ったのを良いことにして、我が国が発祥の地である柔道をスポーツの如くに恣意的に変えて、諸々の国際的なルールを創造して恰もボクシングのようにジャブで牽制し合う事を許し、制限時間などを設けてしまった。だが、不思議なことに欧米が発祥の地だと思っていたビデオ判定の導入は消極的である」のが残念である。

既に「過度にビデオ判定に依存する試合態度には疑問の声が上がっている」が、あのWBCの野球においてのアメリカの審判の誤審後の酷すぎる態度などもあったことだし、異議申し立て制度は正当な権利であると認められている。私は「試合の進行を阻害せず、観客の興味を削がない程度には行使して良いだろう」と考えている。

「チャレンジ制度」から議論が逸れてしまうが、柔道の伝説的王者・山下泰裕氏はJOC会長でIOCの委員なのだから、我が国全体の為もさる事ながら、柔道のルールや試合の運び方等について、IJF会長マリウス・ビゼール氏(オーストリア人)に正当に言うべき事を言って行かれても良いのではないのかと考えるのは誤りか。

パリ2024の柔道における永山竜樹の準々決勝での敗戦について

2024-07-30 08:00:09 | コラム
元レスリング・アジア選手権者に訊くと:

あのパリ2024における柔道の永山竜樹の準々決勝での不可解な判定による負け方は、同じ日本人としても非常に不愉快だったと同時に「審判」という職務における技術の難しさを、あらためて認識し痛感させられた。あの判定が覆せるのならば、何とか覆してあげたかった。

そこで、競技として種目は異なるが同じ個人種目の格闘技(と言って良いのだろう)のアジア選手権者に、色々と尋ねてみる機会があった。彼女が最初にズバリと言ったことは「あの判定をした審判は誤審と認めることはしないでしょう。だが、一生あの判定をしたこと悔やむでしょう。でも誤審ではなかったと主張する以外の選択肢はなかったでしょう」だった。納得できる指摘で、立派な意見だと聞いた。

さらに、あのウズベキスタンの選手は「あの判定で勝利になったのでは、審判の『待て』の声がたとえ聞こえていたとしても、聞こえなかったと言うしかないでしょう。場内の騒音で聞こえなかったと弁解したのは解らないでもないが、それほど夢中で集中していたから聞こえなかったことはあるかも知れない」との見解を示してくれた。「個人種目では試合中はそれほど全神経を集中して『機会』が訪れる瞬間を狙って技をかけているのだ」と教えて貰った。

審判という仕事の難しさについても語り合った。「資格も持っているし、それなりの権威と自信を持って判定しているのだから、判定を変えるという事は絶対と言って良いほどしたくないし、またしないでしょう。また、変えてはならないと思っているでしょう。変えてしまえば審判の権威が失われるから」と言われた。非常に尤もな見解だと尊敬しつつ聞いた。

実は、かく申す私も在学中にサッカーの関東大学リーグ4部の試合で、止むを得ず自分たちの試合が終わった後に、何と公式な審判員が来なかったので我が方、しかも私が我が校を代表してやれということになってしまった事があった。中学から高校の間では部内の紅白戦などでは笛を吹く経験があったが、大学の公式戦では話が違うと緊張もした。

その時に、私の位置から見えない遠くで「ハンド」の反則があったと訴えかけられた。今でも覚えている事は「左サイドで、左手に当たったようだったが見えなかった。義務観念で立っていた臨時の仲間の線審も右側にいたので、見えていなかった。そこで、そのまま試合を進行させる以外選択肢がなかった。抗議は更に猛烈になったが、審判としては一度取らなかったので認めることはしなかった。後味は悪かったが、それで良いと思っていた。

上記の件は70年以上も昔のことだった。現在では以前よりも審判員の資格を取る為の基準は厳格になっているだろうし、各種のテストもあるだろうから技術は格段に進歩しているだろう、何もサッカーだけに限らずに。それでも、柔道のような2人だけで進める競技でも、審判員が1人というのも一寸気になる。相撲だって行司の他に複数の検査役が土俵下に構えて「物言い」をつけているではないか。

「それだから柔道では」と言う前に、あの永山竜樹が不満の表現で畳から降りなかった事を不当な行為であると判定したのも、片手落ちだと思えてならない。柔道にはビデオ判定が導入されているのかどうかは知らないが、あの判定に何らの審議が出来ないほど審判の権威を保護しているのであれば、技術を厳格に審査する国際的な規定があってしかるべきでは。

参考までに、フットボール系ではどうなっているかを取り上げておこう。サッカーにはVARがあって、先日のアルゼンチンのようにゴールが後になって取り消されたし、ラグビーではTMOで再検討して10分間退場がレッドカードに格上げされたし、(アメリカン)フットボールでは7人の審判員がいて夫々の担当分野で反則を監視している。

ビデオ判定に頼りすぎる傾向が見えてきた傾向には「果たしてそれで良かったのか」という疑問も生じる。だが、あの永山竜樹に対する判定を見せられると、審判の権威と技術の在り方に再検討の余地があると思う。後難を怖れずに言えば「その競技種目の後進国乃至は弱小国からも平等に審判員を派遣させることが公平であっても、問題(禍根?)を残すのでは」なのである。