私はアメリカ人の世界を22年以上も経験したから比較して言うのだ:
「アメリカと我が国の企業社会における文化の違い」については、今日までに繰り返して取り上げて指摘してきた。今回は昨日取り上げた“hug”(=抱き合う)の言わば続編として、その「相違点」の範囲を彼等の日常生活にまで広げて論じようと考えた次第。即ち、異文化の世界に身を投じて私が感じた実態を語ってみようと言う趣向。
“kiss”の在り方:
私が戦後間もない頃に知ったこの英単語の訳語はなんと「接吻」だった。我が国にはそのような習慣も挨拶の仕方も全く存在していなかったし、そういう行為は貴重な洋画と言うかアメリカの映画の中でしか見ることがなかった、戦後間もなくの頃の話である。中学生になったばかりの私は、そんな言葉を見聞きするだけでも何となく興奮させられていた記憶がある。
その後、どのような経緯で変化したのか知る由もないが、小説・映画・演劇・流行歌等の分野では「キス」即ち「接吻」のような、男女が唇を合わせる行為は「性行為の前戯」のように看做されるようになったと理解している。だから、「ファーストキスは何時でしたか」などと言う質問を恋人同士である若者にぶつけるような事になってしまったのだと、私は解釈している。「キス」を恋愛が進行する際の一つの段階と捉えているようなのだ。
私はこのような我が国での認識が「アメリカやヨーロッパの文化を誤って解釈している」のだと、1972年以降アメリカ人たちの家庭に入る機会が非常に増えてきて、初めて認識できたのだった。その辺りを以下に述べていこうと思う。
「キス」は挨拶の一形式に過ぎなかった:
上司や同僚の家に夕食にでも招かれたとしよう。学校から子供たちが帰ってくれば、待ち構えていた両親と先ず「キス」の挨拶から始まる。また、共働きの奥方が帰宅すれば、それこそ「熱き抱擁」で音を立ててキスが繰り返されるのだ。このキス攻勢に不慣れだった頃には目のやり場もなかったし、どうすれば良いのかも解らず呆然となっていた。映画の一場面ではなく現実に目の前で展開されるのだから、身の置き所が解らなかった。
さらに、子供たちが寝る前には、必ずと言って良いと思うが「お休みのキス」があるのだ。この辺りまでで「キスとは家族間での単なる儀礼である事」は解ってきた。しかも、外に出ても知人との間では頬にキスをすることはあるし、ハグ以外の挨拶では頬を合わせる形もある事も見えてきた。
要するに「お辞儀」が我が国の挨拶の作法であるのと同じで、アメリカやヨーロッパの人(白人でも良いか)たちの挨拶は「身体を触れ合わせる形」が一般的だという事なのである。別な言い方をすれば「キス」は挨拶の中の一つの形だったのである。長年の知り合いの間では「握手」だけの挨拶は「他人行儀だ」と決めつけられることもある世界なのである。
説明乃至は認識の不足:
私が困ったことではないのかなと思っていることがある。それは、戦後から我が国には「西欧の文化(と言うか『白人たちに世界における仕来り』でも良いか)の受け入れるに際して、何ら準備態勢も整っていないところに、一気に異文化が流入した(招き入れようとした)辺りに誤解と混乱の原因があったと思うのだ。その典型的な例が「挨拶の一形式に過ぎないkissを誤解/誤認識することになったのだ」と考えている。
このような相違点を有識者、学者、専門家、乃至は報道機関が「我が国の文化/礼儀作法は、ヨーロッパやアメリカの文化とはこのように違っている」と、誰にでも解るように正面から易しく説き明かせば良かったのではなかったか。そう言う予備知識を与えられずに、アメリカの映画などで「接吻」だの「抱擁」などの場面を見れば、恋愛感情の熱き表現だと受け止めて興奮しても不思議ではないのでは。
別な視点からの「異文化の誤認識」の例を挙げておこう。それは、戦後に急速に我が国に普及した「ブルー・ジーンズ」を取り上げたい。これは元はそうではなかったようだが、労働者に作業着として愛用されて普及したし、我が国でもアメリカ文化を見習って老いも若きも愛用した。だが、アメリカの企業社会の管理職たちが着用した例は先ず見たことがなかった。そういうものなのだ。私も一度だけ着用してみたが、社内では揶揄された。
念のため補足すれば、ここで私が言う文化とは「ある集団の言語・風俗・習慣・思想・思考体系」を意味する“culture“である。私は「文明」は“civilization“のことだと理解して使い分けている。