「パリオリンピック2024には流石と思わせられた開会式の演出があった」他:
今朝は少し遅く4時を少し回ったところで目が覚めて、何気なくNHKのチャンネルを合わせてみた。
第一部→華やかな演出:
そこにはオリンピック開会式の模様が中継されていた。現地は雨模様という天気予報だったが、画面からは降っているのかどうかは解らなかった。だが、アルファベット順だったのだろう参加各国の入場は既に進行中で、見えたのは“L”で始まる名の国。我が国の選手団は既に通り過ぎた後のようだったのは矢張り残念。
この項を書き始めた現時点では入場航行は未だ続いているようだ。ここまで見た限りでは、如何にもフランスというかヨーロッパの国ならではの洒落た演出で華麗だった。何分にも我が国のマスコミには未だにヨーロッパ/アメリカ等の諸国を未だに礼賛し続ける傾向がある以上、彼等が感動し賞賛するだろう美しさがあった。私は“Olympic flame”を「聖火」と訳すような感覚を捨て切れていないのは如何なものかと感じている。
第二部→オリンピック論:
昨夜、NHKの前夜祭のような番組に登場した体操競技で総合二連覇を果たした内村航平が「開会式には出たことがないので感想を言えない」と正直にというか告白していたのが面白かった。思うに今回のようなセーヌ川を船で下って入場するような演出では「荘厳さ」や「圧倒されるような緊張感」や「表現できないような圧力を感じること」はないかもしれないが、一度でも参加を経験できれば「生涯忘れることがない無上の幸せ」とでも言うべき思い出になるだろう。
個人的な回顧談であることをお許し願っておくと、私は昭和23年(1948年)福岡市で開催された第3回国民体育大会の高校サッカーの部に神奈川県代表として参加した経験があった。大それた事に生意気な高校1年生は「入場式など何と言うことはあるまい」と高を括って、今はなくなっている平和台競技場に入った。行進が始まった。言葉にはならない緊張感・圧迫感・息苦しさに圧倒されて、何処をどう何時間も歩いたのかと感じた状態になった。
何故こんな回顧談を持ち出したかと言えば、あのパリオリンピックの水上入場航海(とでも言うのか)では従来の総合な雰囲気だっただろう入場行進で感じただろう緊張や圧力はなかっただろうし、楽しい入場行進として選手たちの記憶に長く残るだろうと思いつつ見ていた。流石に芸術的感覚に優れていると言われるフランス人で粋なことを考えたものだと、異文化の花が咲くのを鑑賞していた。
私個人の感興を著しく削いだのが3年振りにテレビ画面を通して拝顔の栄に浴したIOC会長トーマス・バッハ氏の(Thomas Bach)長たらしい開会の辞だった。同時通訳が入っていた為に音声が聞こえなかったが、彼は何語で語ったのだろう。2020で語った時の質の低い英語を私は散々批判/非難したが、あの程度の人物を何時まで君臨させておく気なのかとスッカリ興醒めだった。
私は最早オリンピックは国威発揚の場ではなくなく、各国の選りすぐられた選手たちが技術と力と精神力を発揮して勝敗を争い、その結果として勝者を讃える三色のメダルとやらが与えられる場だとしか考えていない。従って、我が国のマスコミ等が「メダルだ」、「メダルだ」とか「何個取れたか」を騒ぎ立てる風潮を「何かを間違っているのではないか」と苦々しい思いで見させられてきた。
第三部→オリンピック報道の在り方:
そのような認識を誤っていることを如実に示す事件が何年か前だったかに起きていた。それは、空港で帰国した選手団からメダルを獲得した者だけを集めて壇上に並ばせる記者会見とやらを開催したこと。主催したのがJOCなのかテレビ局なのか知らないが、彼等は長年「参加することに意義がある」と言い続けてきたのではなかったか。彼等はオリンピックに出場して持てる力を最大限発揮しても惜しくも4位以下に終わった選手たちの、そこに至るまでの研鑽と努力を踏みにじったのではないか。
ここまでで何が言いたかったのかと言えば「オリンピックには色々と疑問の点があるのは間違いないことだが、それに参加しようと懸命の努力を重ねてきた者たちは尊敬されて然るべき. だが、「メダルだ」とか「メダルを何個取れるか」と騒ぎ立てる事が、果たしてオリンピック報道のあるべき姿なのだろうかと疑問に感じていると指摘したいのだ。
あの時の記者会見に呼ばれずに空港から帰らされた選手たちの心中を察した報道がなかった辺りに、彼等マスコミの浅薄さを示す事になるのではないか。「彼等の反省」と「オリンピック報道の改革」を望むのは「無い物ねだり」になるのだろうか。