みんなが「やっぱり」と思ったに違いない。
毎回毎回、不自然な勝敗が多すぎると思っていた人が、多いのではないだろうか。
それは「やっぱりね」と自然にうなずいてしまう報道だった。
たとえば審判というフェアな立場にいなければいけない者も、力士のいる部屋に所属しているという特異さに、協会も監督官庁である文部科学省も気づかないのが、異常である。
あまりにも狭くて特殊な世界。
まるで独立国のような様相だ。
極端なことを言えば、「みんなが八百長をやれば怖くない」「やるのが当たり前になる」のは、無知な独裁者がいる独立国としては、当然の帰結だろう。
某政党の強面政治家も、だれもが「やっぱり」と思っているところは、同じではないだろうか。
自民党の最大派閥の長だった金権政治家の秘蔵っ子。
その彼が、金満政治家、金権政治家になるのも当然の帰結だ。
数十年間続いた自民党の「独裁政治」。
弱小野党に、金権政治を糾す能力も気力もなかった。
その自民党の中で権力争いに敗れた強面政治家が、「自分の党」を作ったら独裁者化するのは当然のことである。
人としての基本が、金満、金権なのだ。
政治資金を私物化することに、何のためらいもないだろう。
「日本を変えるために必要な金」と自分の中で言い訳を肥大させれば、「規則なんて小さい」と勘違いするのも当然だ。
そして、日本の風土というものがある。
「できるやつは、少しくらい金に汚くてもいい」
お人よしのお国柄なのだ。
御上のやることには、正面切って逆らわないという歴史を飽きるほど繰り返してきた民なのである。
「金に汚くても仕事ができればいい」「あの怖い顔は、見るからに頼りになりそうだ」
そして、「そんなことより政治家は、指導力と実行力だよ」。
一度たりとも指導力や実行力など見せたことがないのに、強面のイメージで、多くの人がだまされる。
「やっぱりね」と思いながら、抗議をしないから、それが「暗黙の了解」になる。
今回の八百長もそうだ。
「やっぱりね」と誰もが思っていながら、それが長いこと続けば、自然に「暗黙の了解」になってしまう。
つまり、これは日本の風土病なのだ。
毎回毎回、不自然な勝敗が多すぎると思っていた人が、多いのではないだろうか。
それは「やっぱりね」と自然にうなずいてしまう報道だった。
たとえば審判というフェアな立場にいなければいけない者も、力士のいる部屋に所属しているという特異さに、協会も監督官庁である文部科学省も気づかないのが、異常である。
あまりにも狭くて特殊な世界。
まるで独立国のような様相だ。
極端なことを言えば、「みんなが八百長をやれば怖くない」「やるのが当たり前になる」のは、無知な独裁者がいる独立国としては、当然の帰結だろう。
某政党の強面政治家も、だれもが「やっぱり」と思っているところは、同じではないだろうか。
自民党の最大派閥の長だった金権政治家の秘蔵っ子。
その彼が、金満政治家、金権政治家になるのも当然の帰結だ。
数十年間続いた自民党の「独裁政治」。
弱小野党に、金権政治を糾す能力も気力もなかった。
その自民党の中で権力争いに敗れた強面政治家が、「自分の党」を作ったら独裁者化するのは当然のことである。
人としての基本が、金満、金権なのだ。
政治資金を私物化することに、何のためらいもないだろう。
「日本を変えるために必要な金」と自分の中で言い訳を肥大させれば、「規則なんて小さい」と勘違いするのも当然だ。
そして、日本の風土というものがある。
「できるやつは、少しくらい金に汚くてもいい」
お人よしのお国柄なのだ。
御上のやることには、正面切って逆らわないという歴史を飽きるほど繰り返してきた民なのである。
「金に汚くても仕事ができればいい」「あの怖い顔は、見るからに頼りになりそうだ」
そして、「そんなことより政治家は、指導力と実行力だよ」。
一度たりとも指導力や実行力など見せたことがないのに、強面のイメージで、多くの人がだまされる。
「やっぱりね」と思いながら、抗議をしないから、それが「暗黙の了解」になる。
今回の八百長もそうだ。
「やっぱりね」と誰もが思っていながら、それが長いこと続けば、自然に「暗黙の了解」になってしまう。
つまり、これは日本の風土病なのだ。