リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

むかしよりいま

2011-01-25 07:07:51 | オヤジの日記
むかしは良かった、と思ったことはない。

「むかしの教師は良かった」とよく言う人がいるが、その「むかし」も、「むかしは良かった」と言っていたのだ。

「むかしの政治家は良かった」の「むかし」も、同じことを言っていた。

歌に関してもそうだ。
懐メロが根強いブームである。
80年代、90年代に流行った歌を、「懐かしい」「メロディがいい」「やっぱりむかしの歌は良かった」と言う人がいるが、それは過去の記憶には「思い出」が詰まっているという脳内事情による。

新しい歌は、記憶が付加されていないから、「思い出」による美化がない。
つまり、ハンデがあるのだ。

私は、懐メロを聞かない。
しかし、いま活躍中のアーティストが、自分のむかしのヒット曲を歌うのは、いい。
それは、「成長」あるいはときに「退化」を感じさせて、そのアーティストのリアルな様が見えるからである。

映画も、いまの方がいい。
私は、むかし観た映画をまた観たいとは思わない。
「懐かしさ」を基準にして映画を見ても、楽しく感じない。

ただ、むかし観ていなかった映画をいま観るのは、嫌いではない。
「新しい映画」として観ることができるからだ。

俳優も、いまの俳優の方が、むかしの俳優より断然上手だと思っている。
映像技術の向上により、むかしより演技の粗が目立ちやすいのに、彼らは、それをうまく演技でカバーしていると思う。
むかしの俳優が、いまの映像技術の中で演技をしたら、もともと表情が硬くセリフが棒読みだから、悲惨なことになるのではないか。

テレビドラマもそうだ。
視聴率だけを取り上げて、むかしは視聴率が良かった。
だから、面白かった、という考え方は好きではない。

インターネットもなく、DVDもなく、他の媒体との競争もない時代のドラマといまのドラマを比べるのは、フェアではない。
いま我々は、テレビドラマよりも面白いものを自由に選ぶことができるのだ。
すべての環境が、違う。

私は、いまの方がいいと思う。

料理もいまの方が明らかに美味くて、しかも安い。


ただ、マンガのことは、よく知らない。

むかしもいまも、あまり読まないからだ。

「あしたのジョー」と「ゴルゴ13」には詳しいが、あとはまったくと言っていいほど、知らない。

ただ、テレビや映画を観て面白いと思ったものの原作が、マンガだと知ったときは、「ああ、マンガって、面白いんだな」と思う程度である。

そうは思っても、読みたいとは思わないが。




肉と体脂肪率

2011-01-23 08:12:55 | オヤジの日記
豚肉アレルギーである。

5、6歳のころ、ポークカレーを食って、上半身が痒くなり熱を出した。
それ以来食っていなかったが、大学時代に友だちの家に泊まりに行って、近所のラーメン屋で餃子を食ったら、また熱を出した。
自分が豚肉アレルギーだということを、一瞬忘れていた。
油断して気がゆるんでいたのだ。

鶏肉は、中学一年のとき、友人の家で昼メシに鳥の唐揚げが出されて食ったら、激しく嘔吐した。
それ以来食っていない。

ただ、豚肉に関しては、10年ほど前、自分で餃子を作って食ったときは、平気だった。
何ごともなかった。
外食でも大丈夫だった。
だから、生姜焼きなども自分で作れば、大丈夫かと思ったら、これはあたった。
人間の体は、不思議である。

あるいは、人間の心は、不思議といったほうがいいのか。

牛肉は、大丈夫だ。
今まで食って、異変を起こしたことはない。

ただ、牛肉は高価なので、貧乏人にはあまり縁がないが。

私の中学3年の娘は、肉が苦手だ。
アレルギーというのではないが、私の影響を強く受けた娘は、肉を遠ざけて生きてきた。
私が平気な牛肉さえもハンバーグ以外は食わないのである。
いや、私の手製の餃子も食う。
だから、肉が嫌いというわけでは、ないようだ。

我が家は、完全に二つに分かれる。
ヨメと息子、そして、いま居候中の娘の友だちは、脂肪派。
体脂肪率が、25パーセントを超える。

それに対して、娘と私は、筋肉派。
娘の体脂肪率は、14パーセント。
私は10パーセント。

そして、娘と私は風邪をひいてもすぐ治るが、ヨメたちは治りが遅い。

これは、そのまま肉食動物と草食動物の違いと言っていいかもしれない。



楽園

2011-01-22 15:15:43 | オヤジの日記
いま宮部みゆきの「楽園」というミステリーを図書館で借りて、読んでいる。

宮部みゆきの本は、「我らが隣人の犯罪」から読み始め、トータルで30冊以上読んでいると思う。

どこにでもいそうな人が起こす悲惨な犯罪や小さな犯罪が徐々に大きくなっていくもの。
人情もの、時代物、社会派に分類されるもの、SF、超能力を扱ったもの、そして読むのが辛くなる程やりきれない連続殺人。

どれもが、何かしらのテーマを明確に持っているが、それだけにとどまらず、テーマの影に隠された伏線も重要だから、読んでいて油断できないのである。

「模倣犯」は、大作であり、問題作であった。
あまりにも重いテーマに、私は途中読むのを諦めたのだが、時間をおいて最初から読み直してみると、重々しい中に粛々と浸透する人間の「業」のようなものが、少しずつ感覚として捉えることができるようになると、読むのが止められなくなった。

とてつもなく重いテーマだが、目をそむけてはいけない壊れかけた人間の生き様。
「模倣犯」は、それを怖いほど表現していた物語だったと思う。

そして、この「楽園」は、その「模倣犯」に深く関わった主人公が登場して、異質な能力を持った少年(すでに死亡している)の残した絵を検証するところから、物語は進行する。

「模倣犯」の続編が「超能力」なのである。

あまりの対照的なテーマに、最初は面食らうが、読んでいくと、宮部みゆきの物語作りのうまさに踊らされ、これもやはり読むのが止められなくなった。

いま、下巻を百ページほど読み進んだところだ。

ここまででも、充分に物語を堪能しているのだが、いくつかの伏線が交差して、最後にどのような結末が待っているのか。

一気に読みたいところだ。

しかし、今日の午後、ドラッグストアのチラシの仕事が入ったので、しばらく読書はお預けだ。

続きは気になるが、もちろんお仕事優先。

あと丸二日は読書はお預けになるが、二日のブランクをあけた方が、さらに楽しく読めるような気もする。

宮部みゆきの作品は、そういうものである。




都知事選のゆくえ

2011-01-21 07:27:07 | オヤジの日記
東京都知事選。

青島幸男氏が都知事になってから、都知事選に立候補するのは、あるいは注目されるのは、タレントばかりと思っているのは私だけだろうか。

都知事や知事の椅子って、そんなに軽いものなのだろうか?
それほど政治経験がなくても、名前だけで運営できるものなのか?

そうすると、政治というのは、随分安くてちっぽけなものだと思うのは、やはり私だけか。

今の都知事はタレントではなく、議員上がりで派閥の長らしきものを経験したにもかかわらず、ほとんど実績を残していないと私は判断している。

都知事になれたのは、タレント的なネームバリューがあったからだとも、私は思っている。

この都知事、とにかく上からものを言う人だ。
人の発言を押さえつけるように、小バカにするように、ことばを投げつける。

そこに議論はなく、自分の意見や政策を否定されたら、不機嫌に記者を睨んで言論を封じる。

その姿を見て、彼は怖がりなんだろう、と私は思う。

議論で負かされるのが怖いから、高圧的な態度で相手を脅す。
そして、記者の方は、情けないことに、その強面の姿勢に怖気づき、都知事の恫喝に簡単に屈して、太鼓持ちのように提灯記事(有力なものに媚びへつらう記事)を書き続けるのである。

そんな記者がいる限り、この都知事は、命ある限り都知事選に出続けるかもしれない。

ただ、無類の怖がりのようなので、有力な候補が出て、勝ち目がないとわかったら、出馬をやめるかもしれないが・・・。

青島氏が、都知事選で2選目を出ないと決めたとき、まるで「待ってました」というように、出馬を表明したときのように、彼は「勝てる戦」しかしない人間だと思うから。




新聞は読まない

2011-01-20 07:27:05 | オヤジの日記
もう15年以上、新聞を購読していない。
ほとんど読むこともない。

特に、インターネットが普及してからは、完全に遠い存在になった。

新聞をなぜ、読まなくなったのか。
それは、新聞に「署名記事」が少なかったからだ。

記事を書いた人間の名前を書かないという行為は、私には責任回避に思えた。

たとえば、試験のとき、名前を書かなかったら、その答案は間違いなく零点の判断を下される。
たとえば、卒業論文、見積書、その他公的な文書など、名前がなければ、誰も相手にしてくれない。

それなのに、新聞はなぜ名前を伏せて、記事を書くのか。
そのことが納得できなくて、私は新聞に対して、懐疑的な心を持つようになった。

偉そうなことを言っても、無署名かよ。

あの胡散臭くて、他人の悪口やゴシップばかり書いている週刊誌でさえ、記事には署名が入っている。
つまり、たとえいかがわしいものだとしても、自分の書くものに、責任を持っているということだ。

それに、人が文章を書く場合、「私が」とか「筆者が」という書き方をするが、昔の新聞は「記者が」という書き方が多かった。

「私が」と「筆者が」は個人を現すが、「記者が」となると、曖昧になって「個」が消える。
私には、そこも気に食わなかったのである。

自分の記事に責任をもてないやつの書くことなんか、信じられるわけがない。

しかし、それは私が新聞を読んでいた15年以上前の話である。
私は新聞を読まないので、今の新聞が、どれほど変化したか、まったく知らない。

だから、私の書いたことは、言いがかりだ、ということもある。


ただ、いずれにしても、今の私には新聞は必要ないものであることに変わりはないが。