以前は亡くなった母が行っていたお仏壇へのお仏飯の上げ下げは、すっかり自分の日常に定着した。
母の認知性がすすみ、仏壇やお墓のお世話ができなくなり、亡くなって、はや10年余り。
月日の過ぎ去るのは、ほんとうに早い。
その月日は、普段なにも意識していないのに、なぜ人が亡くなったときだけお坊さんを呼び、お寺のお世話になるのかという疑問から興味を持ち始めた仏教への関心期間とダブル。
熱心に信心をしているとはとても言えないけれど、それでもお釈迦様の教えが、自分の日常の中にしっかりと伝わっているということを意識できるようになってきたし、日々、今を大切に生きようと思うようになった。
毎朝、お仏飯を供えるとき、どれも短くて、たくさんの解説が出されているお経だけれど、一日の心構えとして、お仏壇の前に正座し、お経をとなえることも自然になった。
『開経偈』で、お経を読む心がまえをとなえ、
『懺悔文』で、現状の自業自得を意識する。苦しい現状はみな自分の『頓・瞋・痴』にその原因があり、生じているもの。他人のせいではない。
他人に働きかけ説得し、自分に合わせてもらうことは、至難の技。
でも、自分が変わることで現状も変わっていくと考えれば、今日からでも、今からでもやってみようという気になるし、行動に移せる。
『三帰礼文』で、いつも『人』とともに、他を思いやり、お釈迦様の教えを日常生活で少しでも自分の体で実践し、行うことが大切だと確認。
現実には、「わかっちゃいるけどやめられない」の世界だけれど、毎日の心構えである。
その後に、『舎利礼文』か『延命十句観音経』を三回となえる。
短い、となえやすいお経だけれど、仏教の教えのポイントは織り込まれているようで、有り難い。
『普回向』『四弘誓願文』をとなえて、終わり。
お線香が1/3ほど燃える時間で終わる。
『なんちゃって仏教徒』の自己満足の時間。
一日のこの10分程度の時間の中で、最近、「これだ」と感じたのが、『呼吸を整える』ことの重要性。
関節が固く、座禅を組み瞑想などはとてもできない。
それでも、正座をし、お経をとなえる前に、心を落ち着けて深呼吸をする。
これは、YouTubeの『天野こうゆう法話チャンネル』で教えて頂いた。
瞑想というレベルではないけれど、今この瞬間の自分を受け入れるというか、今この瞬間の自分と向き合うスイッチとしてとても役にたっている。
深夜、未明に目覚めて寝付けないときも、声は出さないけれど、布団の中で横になったまま複式深呼吸を繰り返す。
眠れないまでも、気持ちも体もリラックスできる。
お釈迦さまのようにはとても生きられない。
その教えも、分かるようで、ボワッとした感じで、分かったと思うと、分からなくなる。
たまに、「あっ、」と分かったような気になるときもあるけれど、どうもつながらない。
そもそも自分は、うすぼんやりした人間なので、自分が生きるってこと自体が、ボワッとしたものなのかとも思う。
それでも、日常の中で他を思いやり、自分と向き合う小さな行動の積み重ねは『ラクな生き方』になっていることは間違いないようである。