ゆっくり、のんびりの駅間ウォークだけれど、この方面を歩くに当たって訪ねてみたい場所があった。
それが昭和の時代、講談や浪曲、映画などで楽しんだ『天保水滸伝』のもとになった史実の遺跡等である。
5月、ウォーキングにはでられなかったが、車を使って歴史散歩にでかけた。
近世終盤の下総で、荒廃した農魚村民に尽くした男たちの夢の跡に立ち、生きることの難しさを感じてきた。
コースは、お世話になっているJAFさんの、JAFナビ『天保水滸伝をたどる ぶらり旭の歴史散歩』を利用した。
なんども訪ねているが、今回も旭市長部の大原幽学記念館からスタート。
その後、東庄の天保水滸伝遺品館、諏訪神社で笹川繁蔵が開いた花会跡の記念碑、延命寺での笹川繁蔵、平手造酒、勢力富五郎の笹川一家三人衆のお墓に参拝。
徒歩でのぶらぶら散歩にはちょうどよい距離だった。
天保水滸伝遺品館では、隣接する観光協会の方が30分ほどローカルな詳しい説明をしてくれ、大いに楽しめた。
実際に使われていたものを地元の方々が守って保存展示してくれている遺品館で、地味ではあるけれど、とても迫力が感じられた。
車で少し走って、旭市飯岡へ移動。
光台寺で、飯岡助五郎のお墓、定慶寺で笹川繁蔵の首塚に参拝。
繁蔵親分の体は後に発見され、現代の首長たちが相談して、今は首と体が一緒にお墓に納められている(延命寺)と、遺品館の観光協会の方のお話の中にあった。
最後に、旭市防災資料館と座頭市物語の碑を見学。
旭市防災資料館周辺は、2011年の、3.11の大津波で千葉県では一番大きな被害が出た場所である。
復興は進んでいたけれど、大変な経験、思いをした地域である。
当時の写真資料を中心に展示してあった。
資料館の前庭に、座頭市物語の碑が立っていた。
座頭市は、助五郎親分のところに草鞋を脱いでいた実在の人物がモデルになっているとのこと。
座頭市も千葉県発祥なんだ、と初めて知った。
また、映画をみてみようかな、との気になっている。(笑)
大原幽学は、天保水滸伝と同じ時代、荒廃した農村の実情を憂いた地元の有力庄屋さんに招かれこの地で農村指導。記念館周辺は、この庄屋さんの裏山にあたるらしい。
周辺の農村で根気よく説き、大きな成果をあげるも、その成果や農村の活性化、農民の集団化の動きなどが、封建体制の中での反体制集団と見られ、体制側からの圧力でその取り組みが頓挫してしまった。自刃。
笹川繁蔵親分は、若手の伸び盛の親分さん。
お金を集めて、東庄周辺の農村の疲弊を救おうと、国定忠治親分など、諸国の大親分さん方を招いた諏訪神社での花会、今で言えば『政治資金パーティ』といったところかな、などを精力的に行ったが故に、反体制集団として抑え込まれてしまった。
38歳で飯岡方により殺害、とされている。
一方の飯岡助五郎親分は、物語の中ではヒールなのだけれど、実際は体制側の人間として、十手を預かっている人物。
今で言えば、国家権力をもって取締のできる警察署長のような親分さんだったわけである。
助五郎親分も、地元飯岡では、地域住民のために力を尽くした人物だったという。
大利根河原の決闘というのも、実は、捕物で、今で言う強制捜査だったのだそうだ。(遺品館の観光協会の方のお話)
助五郎親分は、67歳で天寿を全うされているようだけれど、職務を一生懸命果たしたがゆえに、悪者扱いされているとも言えそう。
まだ憲法などの体系化、普遍化した法もなく、行政組織なども整っていなかった時代、地域の有力な人物が、利権とともに、その地域をまとめていったのだろう。
そんな時代を一生懸命生きた三人の男たち。
それぞれの立場では、みな好漢なのに、人生の糸が絡み合うと、辛く、悲しいことも起こってしまう。
人って、多面的に見ないと、ほんとの姿が見えてこない。
親分さんたちのお墓参りをしながら、そんな思いをあらたにした。
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