12月1日 NHK海外ネットワーク
紛争や迫害から逃れるため祖国を離れ難民となった人たち。
移り住んだ国で活躍する人も数多くいる。
北京オリンピックでアメリカの機種を務めたロペス・ロモン選手。
サッカーワールドカップのキャンペーンソングを歌った歌手のケイナーンさん。
アメリカの国務長官を務めたオルブライト氏。
日本では難民の受け入れ制度がスタートしてから30年になる。
そして今 日本でも難民が
その子どもたちが活躍し始めている。
レー・ティ・ニャット・クイさん(24)はベトナムからの難民。
東京大学の大学院に通い最先端のバイオテクノロジーを研究している。
厳しい環境でも育つことができる植物を作り出して
食糧危機など地球規模の課題を解決したいと考えている。
「地球温暖化で気温が高い環境だったり
海水に埋もれても過酷な環境でも植物が育つようにする。
植物がどうやってストレスに適応するかメカニズムを探ろうとしています。」
クイさんの父親マンさん(58)はベトナム戦争時代は南ベトナムの軍人だった。
1970年代以降インドシナ半島からは
混乱を避けるため難民が次々に小さな船で海を渡って日本にたどり着いた。
こうしたボート・ピープルをふくめインドシナから逃れてきた人は1万人を超える。
マンさんもそのひとりで1990年に難民として日本にやってきた。
車やバイクの部品工場で働き口を見つけたマンさんは6年後に家族を呼び寄せた。
経済的にはきびしい日々が続いたが家族4人で支えあってきた。
マンさんは教育や科学技術の水準が高い日本で
“一生懸命勉強すれば世界で成功できる”と信じて子どもたちを育ててきた。
(クイさんの父マンさん)
「戦争で私は勉強を続けられなかった。
だからこそ平和な日本に住んでいる子どもたちには
勉強を続けさせたいと思っていた。
ベトナム難民の手本になってほしかったのです。」
子どものころから成績優秀だったクイさんは横浜市立大学に現役で合格。
奨学金を得て自力で学費を支払った。
(レー・ティ・ニャット・クイさん)
「両親への思いとベトナムの人たちの生活を少しでも良くしたいという
その二つの思いがあってここまで頑張ってこれたかなと思います。」
クイさんは大学院での研究が認められ大手飲料メーカーの研究職に内定した。
企業からは専門知識を生かしてほしいと期待されている。
(レー・ティ・ニャット・クイさん)
「実現したいことに挑戦できる環境と思っています。
トップレベルの技術を学べるのもこの日本なので
自分にとって学びたいことが学べる場所だと思っています。」
日本社会を支えるグローバルな人材として企業も難民の人たちに期待を寄せている。
ミャンマーからの難民のラム・マンさん(36)。
この大手衣料品チェーンでは去年から難民対象にしたインターンシップ制度を始めた。
ラム・マンさんはその最初の研修生である。
仕事ぶりが評価され
ラム・マンさんは2週間の研修が終わった後も店舗で働いている。
目標に向かってやり抜こうとするラム・マンさんの姿勢を
企業は高く評価したのである。
(ユニクロ CSR部 シェルバ英子さん)
「日本人の学生よりも成長したいとか学びたい意欲がある人が多いので
人材としてもポテンシャルがあると思う。」
少数民族出身のラム・マンさんは祖国ミャンマーで民主化運動に参加した。
しかし軍事政権は少数民族を弾圧。
身の危険を感じたラム・マンさんは知人を頼って日本に逃れた。
来日してからは生活に追われるだけの毎日だったが転機が訪れた。
関西学院大学が難民を対象にした推薦入学制度を全国で初めて導入したのである。
ラム・マンさんは一昨年見事に合格。
“自らの民族に必要なのは経済的な自立”だと考え経営学を専攻。
祖国の人たちのビジネスチャンスを広げたいと思っている。
(ミャンマー難民 ラム・マンさん)
「私の民族は資源が何もないので
企業を興して民族の人々が安定して生活できるため自分の民族で何かしたい。」
ラム・マンさんにとって
世界規模で事業を展開している日本の企業の 接客の仕方やサービスを
最前線で学べることは貴重な機会になっている。
この会社に就職して
ミャンマーに1号店を開くことがラム・マンさんの今の目標である。
(ラム・マンさん)
「日本のように技術とかいろいろ上達した国で
企業に就職して企業をミャンマーまで持っていきたいという気持ちはあります。」