7月19日 読売新聞「編集手帳」
明治の東京をしのぶ『旧聞日本橋』で、
作家の長谷川時雨(しぐれ)は幼かった自分を〈アンポンタン〉と記す。
親からそう呼ばれたからだ。
その〈アンポンタン〉には、
ぼんやり人の顔を眺める癖があった。
少女に見つめられた側は困惑し、
「私の顔に出車(だし)でも通るのかね」。
むろん通るはずもない。
面白いことなどないのに、
よしとくれというわけだが、
この夏は町にも山車(だし)や神輿(みこし)が出ない。
全国北から南まで、
多くの祭礼が中止ないし縮小と聞く。
相手はコロナ、
歯がみするのも詮ないが、
にぎやかなお囃子(はやし)も屋台の匂いもお預けである。
花火大会もまたしかり。
懐かしい記憶が今年、
子どもたちから欠け落ちるかと思うと、
やるせない。
今は昔、
両国の川開きで、
時雨は船に乗せられた。
花火の終わりは父の膝で寝たふりをしたという。
〈あとがさびしいから〉。
夢にも似た時間を体験し、
夢が果てる切なさをも学ぶのか。
井上陽水さんの名曲に、
過ぎし日の夏を歌う「少年時代」がある。
口ずさめば祭りも花火も出てくる。
しかも大方の小学校で、
夏休みは短くなる。
少年少女に、
どんな思い出を作ってやれるだろう。