教師は、生徒に対して、言葉を正しく使い、その場面にあった表現を使えるように指導するべきです。
授業は公式の場です。教職経験の少ない、若い先生の授業での言葉づかいに対して、先輩教師が指導します。
「〇〇やねん」でなく「〇〇です」と言いなさいと直したりします。
では、次に生徒が使う言葉に対して、教師がどう応対するかについて、考えます。
たとえば、いまの若者言葉(JK語)のひとつに「ぴえん」があります。
悲しいことに出会ったとき「泣く」という意味を表す言葉ですが、多くの教師は、生徒が「ぴえん」と言ったり、書いたりしたとき、注意をして直させるのではないでしょうか。
「悲しかった」とか「残念だった」と言いなさいとか、書きなさいとか。
私も、言葉を直すように指導すべきだとは思いますが、言葉には感情交流ができる役割もあります。
「ぴえん」は泣き声の「ぴえーん」から来たもので、響きがよく、使いやすいし、目をうるうるした顔の絵文字といっしょに使う若い子が多いようです。
感情をうまく伝えることができるので、言葉としては正しくないけれども、感情の交流はうまくできるのでないかと思います。
だから、「ぴえん」は言い方としては適切でなくても、言葉としては「生きている」のでないかと考えられます。
どんなに正しい言葉でも、生徒の心の中に入っていかない言葉は「死んでいる」言葉ともいえるのでないかと思います。
SNSでの誹謗中傷の言葉で、先日、女子プロレスラーが亡くなりました。ひいては昨今の思春期の子どもたちの言葉の問題には、心が痛みます。言葉は人を傷つける「凶器」にもなることがあります。
「受けた言葉は、今までずっと私がいちばん私に思っていました」。体の中から絞り出されたような言葉に、胸がえぐられるようなつらさを感じます。
言葉は、自分が使った言葉がどのように相手に伝わっていくかは、体験しながら獲得していくところが大きいのです。
失敗しながら身につけ、わかっていくのが人間なのです。
ただし、言葉を「凶器」にしてはならないのです。また、たとえ「凶器」として使われることがあったとしても、それをうまくかわせる人であってほしいとも思います。
純粋で心優しい人が、ひどい言葉を全身で受け止めてしまった哀しさがこの事件にはあるように思います。
学校教育の場で、子ども同士があたたかい言葉を交わせるようになるには、教師自身が自分と他者を大事にして、日常生活の中であたたかい心を伝えることができるようになることだと、わたしは思います。
そのモデルをもとにして、子どもは自己を大切にするようになっていくのでしょう。
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