学校の児童生徒の中には、「手のかかる子」がいます。
たとえば、授業中に落ち着きに欠け、騒がしい子。
学習では、漢字を覚えたり、マス目の中に書き入れるのが苦手な子。
体に障害があり、教室を移動するのに時間のかかる子。
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この児童生徒の保護者の方は、しばしば「ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」と、最初にごあいさつされます。
ほんとうに「迷惑」なのでしょうか。
「迷惑をかける」を英語に直そうとすると、troubleなどの訳語になるのですが、ここでいわれる「迷惑をかける」というニュアンスに、ピッタリとくる言葉がなかなか見つからないのです。
というのは、この言葉が日本独特の慣習や考え方から来ているからです。
この言葉が出るのは、人びとに同調圧力を強く求める日本社会の規範が背景にあるからです。
ほかの人とちがうこと、つまり目立つことは「迷惑」になるという考え方です。
つまり、日本では、人とちがうことが「迷惑」になるのです。
端的に言えば、「ちがい」は、「まちがい」ととらえるのです。
日本の場合、親がわが子に求める「こんな人になってほしい」の願いは、「人に迷惑をかけない人」がトップにきます。
その社会規範がいまも存在するので、「迷惑です!」と言われると、言われた側はその冷たい言葉を受け、ほかの人とちがうことをしないようになり、有無を言わず、しばりつけられるのです。
その点で、日本では、新型コロナウイルス感染予防で「自粛しなさい」と「要請」されると、じっさいに「自粛」するように従う人が多いのです。
ただ、感染第一波ではみんなが自粛したので、日本では感染拡大がこれでも一定程度防ぐことができた、という見方もできます。
この場合は、人びとに同調圧力を求める社会規範(文化)が功を奏したと考えることもできます。
だから、従うことが一概にダメだと言えないのが、ウイルス対策の難しさです。
一方、やまゆり園の相模原事件の場合、「重度の障害者は、国や国民に迷惑だ。生きている価値がない」という主張がありました。
この事件については、社会に「迷惑をかけてはいけない」という呪縛にとらわれた極端なケースとして、私たちは認識しておかなければならないでしょう。
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