中学生のわが子への親、とくに父親のかかわり方について思うことがあります。
それは、父親がわが子に、自分の若いころの苦労話を教訓的に話すことは、あまり子どものためにならないということです。
中学生にもなると、家庭では日ごろからわが子との会話が少なくなりがちです。とくにお父さんとの会話が少なくなります。
そんな父親ほど、いまがその機会とばかりに、自分の苦労話を語りだします。
なかには、酔った勢いで、弾みをつけてとうとうと説教のように話す人がいます。
こうやって、苦労してきたが、その苦労の賜物として今があるのだ。その点、おまえは苦労が足りないと言っているように子どもは受け取ります。
ふだん話さないのに、唐突に親の苦労話を聞かされることに、子どもは閉口しているのにも気がつきません。
母親が傍らで父親のその話を聴いていて、「あなた、自慢話をしているように聞こえますよ」と言います。
「何を言っているんだ。今が大切な時期だから、オレは息子に自信をもたせようとしているのだ」と父親は返します。
そして続けます。
たとえば、「家が貧しかった。ほしいものも買ってと言えなかった。両親が共働きで忙しく、十分な愛情も受けなかった。
それでも、別の道にそれることなく勉強してきたのだ。おとうさんがしてきた苦労からすれば、いまのおまえはしあわせだ。恵まれているぞ・・・」
聞いているうちに子どもの表情は暗くなっていることに気がつきません。
そして、ついに子どもから「そんなに得意そうに話さなくてもわかるよ」と言われて、ハッと驚きます。
「そうか。自慢話になっていたのか・・・」
恵まれているとか幸せだというのは、人がきめるものではありません。
それは子ども自身が感じるものであり、きめるものです。
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