教師は、つねに「いま、わたしは子どもを見ることができているか」を自省しなければなりません。
子どもを見れていると思っても、じつは見えていない部分があるのでないかと問い続けなければなりません。
たとえば、最近遅刻が多くなった生徒がいるとします。
たとえば、最近遅刻が多くなった生徒がいるとします。
「遅刻しないで、間に合うように登校しなさい」と、教師は言う必要はあります。
しかし、その生徒はひとり親家庭で、最近母親の体調がよくなく、じつはその子が家事をかわりにしている。家庭状況を知ることで、見えてくることがあるのです。
子どもは家庭生活、地域での生活を背負って学校に来ているのです。
それを知った上で、『遅刻しないように」と言うのと、知らずに言うのでは言い方も変わるし、教師からの声かけの意味も変わります。
「家庭で、お母さんを助けるのは、たいへんだね。学校に遅れてくる様子を見ていて、わたしは心配しているんだ。応援しているよ』
このように、言葉にして伝えるにしても、教師の胸の中にとどめておくにしても、その子のことをちゃんと見ることができている、理解しているかどうかが、その教師に問われているのです。
また、「子どもを見る」には、多くの教師で見た方がいいのです。その点で、中学校の教科担任制は、生徒を理解するのによくできたしくみであると思います。
また、「子どもを見る」には、多くの教師で見た方がいいのです。その点で、中学校の教科担任制は、生徒を理解するのによくできたしくみであると思います。
たくさんの教師が、生徒にかかわるので、学級担任が気づかないことでも、教科の授業で担当の教員が気づくこともあります。
また、学級担任が、教科担任に、その子についての現状や情報を伝え、共有することで、ほかの教員もその子のことを理解することができるのです。
そして、その生徒は、「わたしは多くの先生から見守られている」と感じることになります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます