国語の授業で教科書に出てきた文章(小説、詩、俳句・短歌など)に触れた生徒が、本のおもしろさに気がつくことがあります。
そこで、図書館に行き、本をかりて読みます。または、本屋さんで親に本を買ってもらう。このようなことが実際にあるのです。
国語の指導で大切なことは、学習者(生徒)が授業者(教師)のはたらきかけにより、文章に没頭する機会をもつことです。
生徒は教師の解説を聞き、教科書の文章をじっと読み込み、文章の理解を深めていきます。
このようにして、生徒が内面の世界を耕す時間が国語の授業の醍醐味ともいえるものです。
その意味で、来年度より高校の国語の教科書から小説が少なるのは、心もとない気がします。
また、いま「主体的で対話的な深い学びの学習」の推進が、どの教科の授業でも必要になっています。
また、いま「主体的で対話的な深い学びの学習」の推進が、どの教科の授業でも必要になっています。
しかし、教職経験の少ない国語科教師がカタチから入ると失敗します。
授業者が質問をして、生徒は机を合わせ班になり、自分の考えや意見を交流し、班ごとに発表するというカタチだけの授業に陥ることがあります。
これでは、本当に個々の生徒が深く考えることができたかというと、大いに疑問があります。
とくに、国語では顕著に表れますが、学習者の吸収力は、人の話をじっくりと聴く態度から生まれます。
とくに、国語では顕著に表れますが、学習者の吸収力は、人の話をじっくりと聴く態度から生まれます。
そのようにして、個々の生徒がじっくりと考えたことを、他の生徒と交流することで、ちがった見方や視点に気がつき、吸収したり、自分の考えや意見を修正していく。
このような活動ができていれば、必ずしも班にしなくてもいいのです。となりどうしの二人1組で交流してもいいのです。
生徒が主体的に考え、他の生徒と対話して、学びが深まればいいのであり、方法はさまざまです。
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