第二次世界大戦のころ、人びとは食べるのに必死でした。
悩みを感じているヒマもないほど必死でした。
人は、一生懸命に生きようとしているときには心に余裕がなく、たとえば「生きるとはどういうことか」など、哲学者にでも任せておけばよかったのです。
翻って、今の時代では、若い子が悩みなどあまりなく、楽しく学校生活を送っていると、一見思えます。
しかし、中には、ものすごく悩んでいる子もいます。
悩んでいることを、ほかの誰にも言えないほど悩んでいます。
それが、いま、大人にはわかりにくいのです。
「わたしなんて生きていてなんの意味があるの?」
「消えてしまいたい」
こんな深い悩みを抱えた子もいます。
リストカットを繰り返す子もいます。
昔の中学生も悩んでいました。
しかし、以前は、どこの高校・大学にいき、なんの仕事につくか。そして誰かと結婚する。
こういう節目は、人生の課題でした。
そこまでたどり着けば、自己というものが確立したのです。
しかし、いまはみんなが大学にいくようになり、なんらかの仕事に就くのが一般化すれば、昔の人が悩んでいたような進学、就職、結婚という課題は課題でなくなったのです。
そして、いまの子どもたち(中学生以上)は、「なんで生きているのか」という、人間の根源的問いに直面することになったのです。
そんな悩みの深い子は、学校の成績なんてつまらない、就職してどうするのかなどと周りの友達を見ていて思うのです。
でも、「それなら、お前はどうするんだ」と聞かれると、答えられないのです。
安定した人間関係があり、安心感をもつ子は、「まあ、とにかく生きていこう」と思いやり過ごしていきます。
でも、そのような支えが少ない子は、学校でもさまよう姿を見せます。
この点が、小学生にはあまりなく、中学生とむきあう中学教師のたいへんなところです。
そんな生徒に対して教師が、話を聴いていると、ふっきれるとまではいかなくても、
「ちょっとがんばってみるか」と何かをやり始めたりします。
本来、「何のためにいきるか」など、10代でわかるのは無理なのでしょう。
「まずは生きていくか」と、人生の難問を心に抱えて少しずつ歩き出すのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます