箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

役立つ喜びを引き出す

2015年10月15日 20時13分17秒 | 教育・子育てあれこれ


子どもに学ばせたいことの一つに、「役立ち感」があります。これは自分の行った行為で相手が喜んでくれること、つまり人に貢献する喜びを体験させることです。

人はだれでも、他者にかかわり、他者がありがたいと思ってくれることから喜びを得ることができます。

学校の先生は、児童・生徒にかかわり、子どもが成長したことに無上の喜びを感じます。手のかかる生徒を指導して、卒業時に「先生、ありがとうございました」という一言を聞くだけで、3年間積み重ねてきた努力やしんどさは一度に吹き飛んでしまいます。

お医者さんは、病気を治して、患者さんから「ありがとうございました。おかげで、元気になれました」という言葉を聞くと、貢献感が高まります。

ディズニーリゾートのカストーディアルは、お客さんに対して行ったサービスの結果として、お客さんの感謝する声を聞くとか、喜ぶ顔を見ることでモチベーションが高まります。

このように、人は他者にかかわることを通じて、相手の役に立ったことを実感することで、喜びを感じるのです。

「働く」(=労働)という点で考えてみると、人は他者を喜ばせるために働くのである、というのも一つの見方でしょう。

ただし、これは喜んでもらいたいから人の役に立つ、というような計算がはたらいて、行っているのではありません。なにかのために自分を役立たせたい、という意識を、人は無意識的に、潜在的にもっているのです。感謝の気持ちや役だってよかったという気持ちは、結果としてついてくるものなのです。

子どもたちも同様です。子どもたちは人の役に立ちたいという願いを、本来自分の中に内在させているのです。ただしその願いは、引き出され、トレーニングされないと開花しません。

家庭で、子どもがお手伝いをしてくれたとします。お手伝いという行為は、その願いを引き出すもっとも身近な方法です。「ありがとう、助かったよ」という一言で、子どもは人の役に立つことの喜び(貢献感)や価値を少しずつ知るのです。

わたしメッセージで話す

2015年10月14日 18時27分27秒 | 教育・子育てあれこれ

「いいかげんにしなさい。スマホ代いくら払っているか知っているの?」 
「いま何時やと思ってるんや。約束の時間はとっくに過ぎてるわ~!」

こんなふうに言われたら、言われた人はどう感じるでしょう。このセリフのどこに問題があるのでしょうか。それは、これらのセリフは「あなたメッセージ」になっているという共通点があります。上の二つのセリフは、このように読み解くことができます。

「(あなたは)いいかげんにしなさい。(あなたは)電話代いくら払っているか知っているの?」 
「(あなたはorおまえは)いま何時やと思ってるんや。約束の時間はとっくに過ぎてるわ~!」
 
私たちはよくこのような「あなたメッセージ」を使います。この場合、言われる側にしてみれば非難されるとか抗議・説教・皮肉・命令などの意味を感じます。言われるのが子どもの場合、責められていると感じます。

そして子どもは親の言葉を聞き流し、ときには反発を覚え、ひたすら小言が終わるのをじっと待つことにもなります。

大切なことは、子どもに悪気はなくても、むしろ子どもにとって楽しいことでも、自分の言動がまわりにマイナスの影響を及ぼすこともあることを教えることです。その繰り返しが、まわりへの配慮となって実を結ぶことになります。

そのためにも、親は「あなたメッセージ」で子どもを責めるのではなく、子どもが受けとれるメッセージにして発する必要があるのです。

「お母さんはたいへんだと思っているの。毎月これほどの電話代を払うのは、わが家の家計では大変なの。スマホ料金を減らすように協力してほしい」
「私はとても心配してるんや。あなた(おまえ)がどこにいるのかわからないし、何かあったんやないかと思って」

この二つのセリフは「あなたメッセージ」から一転して、子どもに親の気持ちを伝えています。あくまで私のこととして話しています。これを「わたしメッセージ」といいます。

こうすることで、子どもは相手のこととして冷静に聞くことができます。自分が責められているのではなく、少々自分にとってイヤな話でも反発にはなりません。むしろ「困っている」とか「心配している」と言われることで、相手を助けなければ、という気持ちになるかもしれません。

これを読んでいるおとなは、それぐらいのことは子どももわかるだろう、と思いがちですが、必ずしも子どもは気づいているとは限りません。

もともと子どもは、自分の言動が問題のないことと思っていたのです。だから親がたいへんだと思っていたとか、親が心配していたなんてことは思いもしなかったのです。

親が子どもにやってほしいことがある、やめてほしいことがある。そのときには、命令したり、指示をしたりするのではなく、ていねいに接します。

教師の中にも「わたしメッセージ」を実践しているというか、そのような接し方を自然に身につけている人は、三中生と良好な関係を築いています。

私も折につけ、生徒の問題を親御さんに指摘するときには、「困っています」ではなく、「心配しています」ですよ、と伝えています。
困っているのは、あなた(=教師側)なのであり、「(わたしは、)お子さんのことを)心配しています」だからね、と添えます。

思春期の子どもには、機嫌どりをするのではなく、「こうしてください」と依頼するのです。親の気持ちがわかり、そしてなぜ言われているのかがわかれば、子どもは言動を変えてくれます。これが「わたしメッセージ」で親が自分の気持ちを伝えることの効果です。

「わたしメッセージ」の話し方はけっこう難しそう、と思われるかもしれません。ですが、ふだんからおとなが子どもに、自分の気持ちを伝えるようにしていれば、「わたしメッセージ」の話し方はさほど難しいことではないのです。

ぜひ、実行してみてください。しばらく続けると、このごろ子どもが変わったね、親子の関係がしっくりいくようになった、と思える機会が増えてくるはずです。


大事です 考えること

2015年10月13日 19時45分55秒 | 教育・子育てあれこれ

ここ20年間で、急速にインターネットが私たちの生活に普及しました。

私の学生時代には、30年後にこのようなインターネット時代が到来することは、想像しにくいことでした。「へー、そんな時代が来るの?」と、何となく聞いてはいたものの、漠然としたものでした。

私は大学生のときには、情報を得るために、大学の図書館をよく利用しました。本・書籍で情報をとるしか、方法がなかったのです。

そして時が過ぎゆき、いまやインターネットで、すぐに何でも調べられる時代となりました。

しかし、一方で、手軽に答えを手に入れることができる環境は、私たちの考える力をどんどん衰えさせてしまうように感じます。

そして、そのような社会の変化による被害を直接受けやすいのは、いつも子どもたちです。なぜなら子どもたちにあらわれる現象は、いつも大人にも影響を与える社会状況の「縮図」であるからです。

頭を使い、一生懸命に考え出したことはなかなか忘れませんが、簡単に調べて簡単にわかったことは、すぐに忘れてしまいます。
 
さらに、正しい情報も、誤った情報も、洪水のようにあふれ出している環境の中では、何が正しいのか、どれが正解なのかを選ぶ力も子どもたちに求められます。

実際、ネット上には、たとえばとんでもないような人権についてのまちがった差別的情報や悪意に満ちた書き込みが氾濫しています。

そこでいらないものは取り込まず、「これが正しい情報や!」と判断し、取捨選択する力も、自分で考えていないと身についていかないのです。

保護者のみなさんには、次のような経験はありませんか。好奇心旺盛な年齢の子どもは小さいときに、よく親に尋ねます。

「あれはなに? どうして?」 このとき親はできるだけ子どもにもわかる言葉を使い、ていねいに説明します。

「あ~、あれはね・・・ということなんだよ。」 子どもは「あー、そうなんか。わかった!」・・・。親はこれで親子の関係が深まったと思い、満足します。

しかし、子どもの発する疑問に対して、親が言葉を尽くし、子どもにわかりやすく、親切に教えてあげることが子育ての基本であると思っていれば、大きな間違いであると、私は思います。

子どもの疑問に対し答えをポンと与えるのは簡単だけれども、子どもは自分で考えることをしなくなってしまいます。

考える力をつけるためには、考える習慣をつけさせることも大切です。「どう思う?」「自分で考えてみなさい」「どうしたらいいと思う?」。このような言葉で返すと、子どもは一生懸命考え、答えを探し出そうとするのだと思います。

私たちが対するのは中学生です。自分で調べることができる年齢です。自分の頭で考えるだけ考え、答えを見つけるという過程や時間を大切にしてほしいのです。

社会に出れば、模範解答も、答えすらない問題や課題もたくさん出てきます。情報や答えを与えられることに慣れてしまわぬよう、考える訓練をすることが、壁にぶつかったときに、乗り越える力になると思います。   

態度と実践で示すのが教師

2015年10月12日 18時09分24秒 | 教育・子育てあれこれ



ダメな子とか、わるい子なんて子どもは、ひとりだっていないのです。もし、そんなレッテルのついた子どもがいるとしたら、それはもう、その子たちをそんなふうにみることしかできない大人たちの精神が、貧しいのだ、ときっぱり言うことができると思います。(手塚治虫 『ガラスの地球を救え』より)



教師も人間。思うようにものごとがすすまず、イライラすることもあります。

「どうしてできないのだ!」
「こんなこともわからないのか!」
「勝手にしろ!」・・・

だからといって、子どもにあたってしまえば教師ではない。

じつは、過去に私もクラスの子にいらだってきつく言い、あたってしまった
ことがあります。
いまふりかえって、その子の家の前を通るたびに申し訳なく思います。

しかし、だからこそ言える。
ダメな子なんて一人もいない。
子どもたちの前で、胸を張って言える教師でありたい。

理想で言っているのではない。このことを態度と実践で示す人が、教師の中の教師です。
(写真は、『ガラスの地球を救え』の表紙より)

ささゆり会40周年

2015年10月11日 18時36分36秒 | 教育・子育てあれこれ


40周年式典(三中体育館)

(1期生のみなさん)

(嶋本先生の合気道実演)

本日10月11日、箕面三中同窓会「ささゆり会」の創立40周年記念式典が行われました。

15時からの式典に先立って、14時からは恩師による体験授業でした。
三中に在籍した教員、谷垣敬三先生(英語)宇都宮智先生(体育)、佐伯博先生(社会)、桑野啓子先生(英語)、松山隆志先生(理科)の5人による授業を、卒業生がうけました。

式典では、期ごとのリレートークのあと、三中創生期に尽力された嶋本勝行先生が、合気道の実演を見せてくださいました。

三中は、全国の公立中学校で唯一合気道部があった学校でした。
その当時、嶋本先生は顧問をされていました。

多くの卒業生と教職員の努力があり、いまの三中があることを実感したひとときでした。

なかには、三中の卒業生であり、今の三中の保護者の方も来てくださいました。お休みの日にもかかわらず、ご参集くださりありがとうございました。




ささゆり会40周年記念式典校長あいさつ
H27(2015).10.11
三中体育館
第15代校長 主原 照昌


ただいまご紹介いただきました箕面三中校長の主原でございます。この4月より第15代校長に着任しました。このささゆり会40周年の式典に、立ち会わせていただく機会をいただきましたことを光栄に存じます。

本日は授業をしていただきました5人の先生方、ありがとうございました。

また、この式典では、長年にわたり三中の黎明期を築いてこられました嶋本先生にたいへんお世話になります。どうぞよろしくお願いします。

さて、昭和48年、1973年に箕面三中は、箕面市で4番目の中学校として、この瀬川の地に開校しました。当時の学級数は10学級でした。昭和60年代は30学級となり、生徒数最大の時期を迎えました、そして今日までにたくさんの卒業生を輩出してきました。

「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる。」

中国の近代文学を代表する魯迅のこの言葉は、小説「故郷」に出てくるものです。

同窓会は、箕面三中の足どりを示すものです。同窓会の活動が三中の道をつくってきています。また卒業生が多くなればなるほど、確かな道になります。ここにお集まりのみなさまが、中学時代を懸命に過ごしてこられたからこそ、道がつき、今の三中があります。

そして、みなさんの戻ってこられる場所は、ささゆり会という名の故郷(こきょう)つまり「ふるさと」になります。
 
最後になりますが、本式典の準備に今日まで携わっていただいた、矢谷さまをはじめ実行委員会のみなさまには、私から最大のねぎらいをさせていただきます。ありがとうございます。お疲れ様です。

本式典およびささゆり会の今後の益々のご発展とご盛会、および参会の皆様の末永いご健康とご多幸を祈念しまして、お祝いのあいさつとさせていただきます。本日は誠におめでとうございます。ありがとうございました。


 

成熟社会を生きる

2015年10月10日 14時42分45秒 | 教育・子育てあれこれ


南小地区福祉会敬老の集いに来ています。

日本が成長社会から成熟社会に入っているいま、齢(よわい)を重ねることは、決してマイナスではない。

登山にたとえれば、高度経済成長時代は、がむしゃらに山を登るときだった。登るのに必死で余裕がなかった。

しかし成熟社会は山を下りるとき。
下りるときには、登るときに気がつかなかった、足もとに咲いている高山植物の花の美しさに気がつく。
はるかかなたに見える海の美しさにも、気がつく。
横にいる人とゆっくり話す時間ももてる。

山を登るときと下るときと、どちらが人間らしく、豊かであるか。言うまでもないであろう。

人とのつながりを子どもに教えたい。
山を下りるのは、決してマイナスではない。私たちはいま成熟社会を生きている。

自分の中の「光」探そう (作家・あさのあつこ)

2015年10月09日 07時22分06秒 | 教育・子育てあれこれ



中学生って風に吹かれる木の葉のようです。いつも翻って揺れている。木の葉は翻ることで歯の裏側にも十分な光を受けられる、と聞きます。

揺れるのは、自分自身のよりどころを見つけるための大事なプロセス。中庸(注:ほどほど、まんなかのこと)のない、揺れる少年の魅力を書きたいという思いが「バッテリー」の主人公・巧や、「THE MANZAI」の主人公・歩の少年像に結びつきました。

「勉強ができる」「スポーツが得意」など、分かりやすいよりどころを見つけられる子もいます。

でも、目立った取りえがない、たいていの中学生は、自分の中に鍬(くわ)を入れて、必死によりどころを探さないといけない。自分の中で本当にひとつ光っている部分を見つけられる方が、周囲から見えやすい才能に支えられるたより、すごいことではないでしょうか。

自分で発見したよりどころは、意外に太くてしぶとい。私の場合は「書くこと」でしたが、「笑うことが好き」とか「あなたがいてくれてよかったと言われた」とか千差万別でしょう。一見ささいなことが、本人にとってはかけがえのない意味を持つのです。

私の末娘は10代が終わった頃、「生まれ変わっても私自身になりたい」と話してくれました。特に才能も取りえもない。でも友人という確かなよりどころを持ち、ずっと笑って生きてきた。

私自身、母親として上の2人の息子の時は「世間に対して恥ずかしくない子に育てなくては」というこだわりが強かったのですが、娘には「一緒に楽しくやればいい」という思いで接することができた。それで娘も大きく息ができたのかな、と思います。

親や教師からの「集団から外れるな」「普通であれ」という圧力に息苦しい思いをしている子も多いと思います。

私は、物語の少年たちには「変わった存在でいい」と思っていますが、現実には、今の自分が一番苦しくないやり方を選ぶことも大切です。

時には自分をのみ込み、身をかがめるのも、決して悪いことではありません。
ただ、根っこのところで「私はダメだ」「本当の友だちなんてできっこない」と思い込まないでほしい。

生きている限りは誰かと出会い「誰かにとってかけがえのない存在」になれる可能性があります。

私が作品の中で描いた出会いや人間関係は「絵空事ではなく、実際に起こりうる」と言うことを信じてほしい。何かと出会えるのは、今日を生き延びて明日を迎えられる人だけなのです。 
<2012年5月23日の「朝日新聞(朝刊)」「リレーおぴにおん 花の中学生③」のあさの
あつこさんのエッセイより>




このエッセイは自分の存在、自分らしさをひたすら追い求める時期の中学生の心理・心の揺れをうまく表現しており、私も深く共感を覚えます。

いまの時代、社会は、「あなただけの『オンリーワン』を見つけよう」という負荷を、なんとなく子どもたちにかけています。そして、子どもたちは、「自分らしさ」「自分さがし」「自分のやりたいこと」探しにつとめます。

ただしそれは、ほかの人よりも卓越した才能をみつけることでなくてもいいのです。

平凡なことであっても、自分が自分の生活を満足に過ごせる楽しみや拠りどころさえ見つけることができればいいのでしょう。

自分が価値のある存在であると思え、誰かとつながって生きていければ、その子にとってのすばらしい人生が開かれていくのだと、私は思います。

桜の紅葉

2015年10月07日 20時34分28秒 | 教育・子育てあれこれ

これは三中2年生女子生徒の作品。
自分の生まれ月を絵で表している。
この子が生まれた月には、山々が色づきだしていたことだろう。

秋は、私の好きな季節。
田舎で生まれ育った私には、木々や葉が様々な色を見せる秋の風景に、ノスタルジーを感じる。


紅葉といえば、モミジを思いつく人が多いだろう。
しかし、秋に真っ先に色づく木が、桜である。8月の終わりには葉が黄色になり、その後オレンジ色になり、11月の始めには、赤色となる。

桜の紅葉は話題にあがることも少ない。そして、人知れず紅葉を終える。目立たなくとも、しっかりと着実に色づき、落葉を迎える。そのような生き方に惹かれる。

その先にやってくる冬は、色の寂しい季節。
紅葉の色の豊かさは、冬を迎える前に、私たちがたっぷりと心と身体を温めておくという自然からの贈り物である。

かくして、これからの豊かな色を楽しむ。

「聴くこと」で支える

2015年10月06日 19時09分36秒 | 教育・子育てあれこれ


人間関係のある人同士が、悩みやストレスをかかえる相手から話をきくときには、きくことに徹することが大切だと思います。そしてその「きく」は「聴く」でなければなりません。

英語では、漠然と聞くことをhearといい、注意して聞くことをlistenといいます。心が傷ついた人が語る話をきいている途中に、自分の意見や自分の考えを挟み込むのでは、心の傷を癒すことはできません。

「話をきく」が受動的で、「話をする」が能動的であるように人は考えがちですが、「話を聴く」という行為は決して受け身ではなく、能動的で主体的なものです。

なぜなら真摯に聴くというのは、その聴き手が相手にかかわり、何らかの役に立ちたいという強い思いをもっているからです。

とはいいながらも、人はとかく待つことが苦手です。たとえば、中学校でいえば 、心が傷ついている生徒は大事なことをそんなにうまくはしゃべれません。ポツリポツリ断片的にしか話せない。

そこで沈黙していて目だけ合わせるのはつらいので、聴き手(先生)は言葉を迎えにいきます。

そして「ああ、あなたの言いたいことはこういうことでないの?」と聴き手が要約してしまうことが多いのです。そうすると、話す側も「そうです」とその「物語」にのってしまいます。

学校の先生も保護者の方も、話を聴く相手がおとなであれ、子どもであれ、聴くときにはじっと待つことが大切なのです。

学校の先生の場合、待つことができる人は、子どもに語らせ、語ることで子どもが自らの気持ちに整理をつけさせることができる生徒指導のエキスパートです。これができる人は、三中にもそれほどたくさんはいません。

人は少しずつでも、つらい思いをしながら語ることで、今までの自分とは違った自分への「かかわり方」を見つけるのです。

つまり自分を客観的に見ることができるようになっていき、傷ついた自分から離れることができるのです。「傷つき」に浸りきる状態から抜け出すのです。心が癒されるというのは、じつはこのような状態なのです。

聴くことで人を支えるのは、簡単ではないですが、力強い行為なのです。

言葉の力

2015年10月05日 09時08分19秒 | 教育・子育てあれこれ

一般的に、子どもが言語を習得するには「臨界期」があり、おおむね9歳ぐらいまでと言われています。

もちろんこの年齢を過ぎても言語の習得は可能です。ただし、「臨界期」は音声面では存在するようで、9歳ぐらいまでに子どもは言葉をシャワーのように浴びた経験をくぐると、言語を聞きとり、正しい発音で話すことができるようになります。

だから、日本に生まれた子が、日本語を話す家庭や環境で育つと自然に日本語を聞いたり、話せるようになるのです。

ですから、「臨界期」までにとくに音声面で日本語以外にも言語のシャワーを浴びて育った子は、その後、言語の学習から遠ざかる期間があろうとも、また習い始めると音声面の能力が引き出され、開花します。

とくに音声を正しく聞きとり、正確に発音できるようになるには「臨界期」は一つの目安になります。よく言われる「日本語もできない時期に、英語を学ぶ必要などない」という主張はあてはまらないのです。

この点から、現在、英語の早期教育や小学校での音声を主とする英語教育が、重要視されている側面があります。

子育てに関して言えば、子どもは親やまわりのおとなから多くの言葉を聞きます。子どもは親からの言葉のシャワーを浴びれば浴びるほど、言葉の数が増え、言葉と言葉をつなげて文章にするという豊かな言葉の世界に引き込まれていきます。

そして、子どもは言葉を介して考え、思考を深めたり広げたりすることができるのです。

子どもが思春期にさしかかり、もし親やおとなに対して無口になったりしたとしても、または、おとなに対して反発するようになろうとも、あるいは、非行の道に入りこみ、おとなをシャットアウトするようになっても、小さい頃に一度言葉のシャワーを受けた子どもは、また言葉の豊かな世界へ戻ってきます。そして、言葉の世界の豊かさは子どもの内面の豊かさを生み出します。

これが言葉のチカラです。ですからおとなは子どもに対して、幼少期には言葉をシャワーにして、思春期には願いや思いを言葉にして伝え、子どもの内面を豊かにしていくことが必要になります。
(写真は、柳田邦男さんの書籍『言葉の力 生きる力』の表紙画像を引用しています。)