中学生って風に吹かれる木の葉のようです。いつも翻って揺れている。木の葉は翻ることで歯の裏側にも十分な光を受けられる、と聞きます。
揺れるのは、自分自身のよりどころを見つけるための大事なプロセス。中庸(注:ほどほど、まんなかのこと)のない、揺れる少年の魅力を書きたいという思いが「バッテリー」の主人公・巧や、「THE MANZAI」の主人公・歩の少年像に結びつきました。
「勉強ができる」「スポーツが得意」など、分かりやすいよりどころを見つけられる子もいます。
でも、目立った取りえがない、たいていの中学生は、自分の中に鍬(くわ)を入れて、必死によりどころを探さないといけない。自分の中で本当にひとつ光っている部分を見つけられる方が、周囲から見えやすい才能に支えられるたより、すごいことではないでしょうか。
自分で発見したよりどころは、意外に太くてしぶとい。私の場合は「書くこと」でしたが、「笑うことが好き」とか「あなたがいてくれてよかったと言われた」とか千差万別でしょう。一見ささいなことが、本人にとってはかけがえのない意味を持つのです。
私の末娘は10代が終わった頃、「生まれ変わっても私自身になりたい」と話してくれました。特に才能も取りえもない。でも友人という確かなよりどころを持ち、ずっと笑って生きてきた。
私自身、母親として上の2人の息子の時は「世間に対して恥ずかしくない子に育てなくては」というこだわりが強かったのですが、娘には「一緒に楽しくやればいい」という思いで接することができた。それで娘も大きく息ができたのかな、と思います。
親や教師からの「集団から外れるな」「普通であれ」という圧力に息苦しい思いをしている子も多いと思います。
私は、物語の少年たちには「変わった存在でいい」と思っていますが、現実には、今の自分が一番苦しくないやり方を選ぶことも大切です。
時には自分をのみ込み、身をかがめるのも、決して悪いことではありません。
ただ、根っこのところで「私はダメだ」「本当の友だちなんてできっこない」と思い込まないでほしい。
生きている限りは誰かと出会い「誰かにとってかけがえのない存在」になれる可能性があります。
私が作品の中で描いた出会いや人間関係は「絵空事ではなく、実際に起こりうる」と言うことを信じてほしい。何かと出会えるのは、今日を生き延びて明日を迎えられる人だけなのです。
<2012年5月23日の「朝日新聞(朝刊)」「リレーおぴにおん 花の中学生③」のあさの
あつこさんのエッセイより>
このエッセイは自分の存在、自分らしさをひたすら追い求める時期の中学生の心理・心の揺れをうまく表現しており、私も深く共感を覚えます。
いまの時代、社会は、「あなただけの『オンリーワン』を見つけよう」という負荷を、なんとなく子どもたちにかけています。そして、子どもたちは、「自分らしさ」「自分さがし」「自分のやりたいこと」探しにつとめます。
ただしそれは、ほかの人よりも卓越した才能をみつけることでなくてもいいのです。
平凡なことであっても、自分が自分の生活を満足に過ごせる楽しみや拠りどころさえ見つけることができればいいのでしょう。
自分が価値のある存在であると思え、誰かとつながって生きていければ、その子にとってのすばらしい人生が開かれていくのだと、私は思います。