幾何学的で有機的で、女性のもののようでもあり、
だけど「何ものか」になっておらず
名詞を拒絶して説明のつかないような
それでいて規律と構造を持ち、同時にそこから逸れる気配(おぞましさ)も持っている
そんな絵は可能でしょうか?
ジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva)は
”おぞましいものはどっちつかずのもの”とした。
それは規律内におさまりきらないもの。
例えば「食事中の嘔吐」のように。
逆に、おぞましいとされるものから
その時々の社会の規律も見えてくるのだそうだ。
また、
”おぞましいものは、身体にまつわるものに多く見られる。例えば分泌液、排泄物、汗、唾液、死による肉体の腐敗…”
私たちはおぞましいものを隠したい。
そして私は、隠されたおぞましさを見たいと思っている。
映画「バベル」 (Babel,2006,米)の後半
モロッコで銃弾にあたり、小さな村で瀕死の状態に陥った妻が
がまんしきれずに排尿するシーンがある。
夫が身体を起こしてやり、排尿を介助する最中、
互いをいたわり合いキスをする。
その排尿は生の暗喩となっていて
それ故に強く心を揺さぶられるシーンだった。
そんな生の描き方があるのかと、そして
この映画では他のシーンでも痛く生の在り方があぶり出されていた。
人の生は死に裏打ちされていて
できればそこから目を逸らしたいが
それでは人生は片手落ちで、強く愛することもできないと
”おぞましきもの”の警告があるとするならば
映画や絵画はそれを拾い上げて
”おぞましさ”の見つめ方を示唆することができる、
そんな役割も担えるのか、と思ったりもする。
参考:「クリステヴァ テクスト理論と精神分析」枝川昌雄著,洋泉社,1987