Michiyo Kamei "Shape of life"いのちのかたち  

画家 亀井三千代 記
「身体曼荼羅」春画と解剖図
michiyokamei diary

おぞましきもの

2018年08月25日 22時06分12秒 | 日記


幾何学的で有機的で、女性のもののようでもあり、
だけど「何ものか」になっておらず
名詞を拒絶して説明のつかないような
それでいて規律と構造を持ち、同時にそこから逸れる気配(おぞましさ)も持っている

そんな絵は可能でしょうか?





ジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva)
”おぞましいものはどっちつかずのもの”とした。
それは規律内におさまりきらないもの。
例えば「食事中の嘔吐」のように。

逆に、おぞましいとされるものから
その時々の社会の規律も見えてくるのだそうだ。

また、
”おぞましいものは、身体にまつわるものに多く見られる。例えば分泌液、排泄物、汗、唾液、死による肉体の腐敗…”

私たちはおぞましいものを隠したい。
そして
私は、隠されたおぞましさを見たいと思っている。

映画「バベル」 (Babel,2006,米)の後半
モロッコで銃弾にあたり、小さな村で瀕死の状態に陥った妻が
がまんしきれずに排尿するシーンがある。
夫が身体を起こしてやり、排尿を介助する最中、
互いをいたわり合いキスをする。
その排尿は生の暗喩となっていて
それ故に強く心を揺さぶられるシーンだった。

そんな生の描き方があるのかと、そして
この映画では他のシーンでも痛く生の在り方があぶり出されていた。





人の生は死に裏打ちされていて
できればそこから目を逸らしたいが
それでは人生は片手落ちで、強く愛することもできないと
”おぞましきもの”の警告があるとするならば
映画や絵画はそれを拾い上げて
”おぞましさ”の見つめ方を示唆することができる、
そんな役割も担えるのか、と思ったりもする。

参考:「クリステヴァ テクスト理論と精神分析」枝川昌雄著,洋泉社,
1987 



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