里山クラブのフォローアップ講座で、奈文研の室長さんじきじきの
お話を聞けるというので参加した。
早く行って一番前へ陣取った。
これは熱心さとは関係なく、私の耳と目の関係だ。
発掘直後のまだ鮮やかな壁画がなんでカビだらけになったの?と
残念に思っていたが、新聞や書いたものも、なかなか読みづらく、
すぐ眠くなるので、今日のパワーポイント映像を見ながらのお話は
わかりやすかった。
先ず、「発掘作業の状況は1週間ごとに発表されたので、秘話は
ありません」といわれた。
又、「26日に橿原文化会館で高松塚シンポジウムがあるので、それ
とかぶらない話をします」ともおっしゃった。
古墳の昔の姿
江戸時代の絵図にある「頂上が平らで松の木が1本生えた古墳の絵」
これが原点だ。素朴な絵だ。村まで5町と書いてあった。
「御陵山高松塚」と呼ばれ、文武天皇陵として描かれていた。
そして長らくの間そう思われていたらしい。
(面倒なので以後「らしい」「・・そうだ」は省略。 聞き違い・勘違い
も許してね。)
発見
周りはミカン畑などに利用されていた。
その斜面に生姜穴(生姜保存用)を掘ろうとして凝灰岩の切石が出
てきたのがきっかけとなって昭和47年に壁画が発見された。
わが国初めての壁画古墳として大騒ぎになっていたことは覚えている。
すでに開いていた盗掘穴から撮られた極彩色の絵は鮮やかだった。
飛鳥のどこの家にも「女子群像」のパネルがあり、記念切手も売り出
された。
うちの家にも10年前に父母が私の家へ引っ越してくるまでパネルが掛
かっていた。
父が購入した壁画の切手や、わざわざ消印を押した切手付き封筒など、
今も残っている。(寄付金付きで、保存に貢献?)
女子群像
男子群像
白虎
封筒(48.3.26消印)
キトラ古墳も四神の絵などが描かれた壁画古墳だが、そのころの風俗
が描かれたものとしては高松塚を除いて例がなく、大変貴重なもので、
後に国宝にも指定された。
古墳の痛み
発見当時の写真からすでに天上の石の隙間から木の根が入り、漆喰が
落ちていたり、天上の亀裂や壁に石棺が当たったらしい型が残ってい
たりする様子も見えた。
発掘が進むにつれて、南海地震(M8クラス)の爪痕も現れてきた。
ヒビが何本も走り、断層が現れたところもある。
頂上に生えていた松の根の跡も現れた。
保存策
それから壁画の保存策が講じられ、空調設備付きの現在のような古墳
全体を覆う姿になっていく。
そのうちにも劣化は進み、平成16年の現状写真をきっかけに保存対策
が練り直され、「石室ごと壁画を取り出して解体修理をし、将来は古
墳に戻す」という方針が立てられ、前例のない石室解体となった。
石室解体
解体のための発掘作業が進むと、古墳をムシロをかぶせた上から直径
4センチの棒で突き固めた跡や、床に残された丸い模様は床面を水平に
とるための水準杭の跡だということもわかる。
これも大変貴重な発見だとか。
入り口の前に赤色の水銀朱がこぼれていた。
これは壁画を描くために、南の壁を外して狭い石室の中に入る際、こ
ぼしたものらしく、無機質のものにだんだん息が吹き込まれたよう
に人の手を感じ、今日の話の中でも一番興味深かった。
後の質問でNさんが「暗い石室内で絵を描くときの採光の方法は?」と
質問された。
ほんまやどうしたんやろう? さすが歴史の達人の質問だ。
それに対しては「発掘ではそれらしい痕跡はなくナゾです」との回答
だった。
まだまだナゾは多いんだな。
壁画のカビについては発見当初の現状も聞いて、最大の努力をされて
のことなので残念だけど仕方なかったのかなという気持ちになってきた。
今後
解体された16個の石室材料は今、歴史公園館の裏の修復館で調査が
進められているらしい。
修復するのに10年はかかるとか。
今度はどのような姿で現れるのだろう。
お話を聞けるというので参加した。
早く行って一番前へ陣取った。
これは熱心さとは関係なく、私の耳と目の関係だ。
発掘直後のまだ鮮やかな壁画がなんでカビだらけになったの?と
残念に思っていたが、新聞や書いたものも、なかなか読みづらく、
すぐ眠くなるので、今日のパワーポイント映像を見ながらのお話は
わかりやすかった。
先ず、「発掘作業の状況は1週間ごとに発表されたので、秘話は
ありません」といわれた。
又、「26日に橿原文化会館で高松塚シンポジウムがあるので、それ
とかぶらない話をします」ともおっしゃった。
古墳の昔の姿
江戸時代の絵図にある「頂上が平らで松の木が1本生えた古墳の絵」
これが原点だ。素朴な絵だ。村まで5町と書いてあった。
「御陵山高松塚」と呼ばれ、文武天皇陵として描かれていた。
そして長らくの間そう思われていたらしい。
(面倒なので以後「らしい」「・・そうだ」は省略。 聞き違い・勘違い
も許してね。)
発見
周りはミカン畑などに利用されていた。
その斜面に生姜穴(生姜保存用)を掘ろうとして凝灰岩の切石が出
てきたのがきっかけとなって昭和47年に壁画が発見された。
わが国初めての壁画古墳として大騒ぎになっていたことは覚えている。
すでに開いていた盗掘穴から撮られた極彩色の絵は鮮やかだった。
飛鳥のどこの家にも「女子群像」のパネルがあり、記念切手も売り出
された。
うちの家にも10年前に父母が私の家へ引っ越してくるまでパネルが掛
かっていた。
父が購入した壁画の切手や、わざわざ消印を押した切手付き封筒など、
今も残っている。(寄付金付きで、保存に貢献?)
女子群像
男子群像
白虎
封筒(48.3.26消印)
キトラ古墳も四神の絵などが描かれた壁画古墳だが、そのころの風俗
が描かれたものとしては高松塚を除いて例がなく、大変貴重なもので、
後に国宝にも指定された。
古墳の痛み
発見当時の写真からすでに天上の石の隙間から木の根が入り、漆喰が
落ちていたり、天上の亀裂や壁に石棺が当たったらしい型が残ってい
たりする様子も見えた。
発掘が進むにつれて、南海地震(M8クラス)の爪痕も現れてきた。
ヒビが何本も走り、断層が現れたところもある。
頂上に生えていた松の根の跡も現れた。
保存策
それから壁画の保存策が講じられ、空調設備付きの現在のような古墳
全体を覆う姿になっていく。
そのうちにも劣化は進み、平成16年の現状写真をきっかけに保存対策
が練り直され、「石室ごと壁画を取り出して解体修理をし、将来は古
墳に戻す」という方針が立てられ、前例のない石室解体となった。
石室解体
解体のための発掘作業が進むと、古墳をムシロをかぶせた上から直径
4センチの棒で突き固めた跡や、床に残された丸い模様は床面を水平に
とるための水準杭の跡だということもわかる。
これも大変貴重な発見だとか。
入り口の前に赤色の水銀朱がこぼれていた。
これは壁画を描くために、南の壁を外して狭い石室の中に入る際、こ
ぼしたものらしく、無機質のものにだんだん息が吹き込まれたよう
に人の手を感じ、今日の話の中でも一番興味深かった。
後の質問でNさんが「暗い石室内で絵を描くときの採光の方法は?」と
質問された。
ほんまやどうしたんやろう? さすが歴史の達人の質問だ。
それに対しては「発掘ではそれらしい痕跡はなくナゾです」との回答
だった。
まだまだナゾは多いんだな。
壁画のカビについては発見当初の現状も聞いて、最大の努力をされて
のことなので残念だけど仕方なかったのかなという気持ちになってきた。
今後
解体された16個の石室材料は今、歴史公園館の裏の修復館で調査が
進められているらしい。
修復するのに10年はかかるとか。
今度はどのような姿で現れるのだろう。
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