安堵町の重要文化財 中家住宅を見学。
中氏は元は武士であったが、後に帰農して大地主となった家柄。
中家は、外濠・竹藪・内濠と、2重の濠に囲まれた3500坪の敷地を持つ環濠屋敷。
平城形式を取り入れた武家造りと農家造りを兼ねた民家。
濠・竹藪・主屋・表門・新座敷・米蔵・乾蔵・牛小屋・持仏堂・庫裏・宅地・竹藪・濠 など「中世の平城様式の館の姿を伝える屋敷構え」として、丸ごと重要文化財に指定されているそうだ。すごい!
外濠 今は水はない。南側の外濠は消滅して内濠だけになっている。
内濠が取り囲む屋敷。
内濠に架かる「跳ね上げ橋」は、ただ一つの入口。
この跳ね上げ橋を毎夜、中央の板を外して外敵の侵入を防いだ。
門の左にある下男部屋には監視用の「物見窓」がついている。
中家の御当主さん(21代目)が案内してくださった。(要予約)
「主屋」急こう配の茅葺屋根に煙り出しのついた小屋根が付いた「大和棟」
美しい大和棟民家として切手にもなったとか。
主屋に入ると左側、落ち棟の下は土間で「かまど」がある。
重要文化財指定の際に、解体修理されたとか。
大きいものから小さいものまで11の焚口のあるかまど。
黒漆喰も艶やかなかまどは勾玉型の配置。
こうすれば1人でたくさんのかまどの世話ができる。
手前の上には煙返しの太い梁がある。
このかまどは、年に3・4回は使用されるとか。
地域の子供たちが竹薮でタケノコを採って、このかまどで茹でたりすることもあるらしい。
いいなあ。使うことでかまども生きる。
「入船の庭」役人など来客のあった時、濠に舟を浮かべて観月会などのもてなしをした。
この古めかしい2つの箱は?
左)天正4年 中家9代目の頃に漬けた梅干し。
右)安永2年 中家14代目の時代に漬けた梅干し の甕が入っている。
これが「天正4年(1576)の梅干し」
黒くなった梅干し、塩の粒々がしっかり残っていた。
見るだけでツバが湧いてくる。
保存食梅干し。とはいえ、ここまで長持ちするとは驚き。
戦いなどに必須の貴重なもので、大事に保存されていたのでしょう。
最近の減塩梅干しでは到底無理ですね。
来客用の「蒸し風呂」を見せてもらった。
主屋から続くトイレや蒸し風呂のある建物。
奥の入口の中に蒸し風呂。(写真が・・)
手前は簀の子敷きの洗い場。
ここでお付きの人に?洗ってもらったり湯をかけてもらったりしたのかな・・
蒸し風呂(小部屋)の中。今でいうサウナ。
簀の子の下に熱く沸かした湯を入れた釜を置き、床に敷物を敷いて、浴衣を着てしゃがんで湯気で体を温める。
釜の湯が冷めないように、おき(炭火)で温めたそうだ。
床に敷いた敷物、これが風呂敷の由来となった。・・なるほど。
庭から見た主屋。
2016年茅葺き屋根を葺き替え。茅の色も鮮やか。(写真)
茅は以前は曽爾高原のもの、その後は岩手県金ヶ崎で栽培されているものを使っておられるとのこと。
日当たりの悪い北側の屋根は痛みが早いらしい。
茅葺屋根の棟の部分の仕様も凝っている。
茅を束ねて杉皮?で巻いたものを並べて、木で押さえてある。
「鳥が中の茅をくわえていくんですよ」とおっしゃっていた。
庭の北側の建物は米蔵。
大和川があふれた時に、地域の人の荷物を預かったりされたこともあるらしい。
「持仏堂を案内します」
米蔵の中央を通り抜け、内濠に出る。
橋を渡る。
東北の鬼門にあたる濠の石垣には切り込みが入っている。
濠に沿った竹藪の横を歩いているとハイキングの気分。
濠の向こうの繁みにはフジの花が咲きかけていた。
「持仏堂(中家のお寺)」 右側の茅葺の建物は「庫裏」
庫裏には持仏堂を守るお坊さんが住まいしておられたとか。
庫裏の板間に置いてあるのは「持ち出しくど」(移動式のかまど)
重いが手前の土間に下ろして使うこともできる。
移動式のかまどって初めて見た。
母屋に戻る。
「以前にあった主客玄関の屋根に取り付けられていた」という瓦が並べてあった。
1枚1枚に物語があるようだ。
並んだ中の1枚 ふっくらして温かみを感じる手彫り瓦。
瓦職人の名が書いてあるものもあった。
中家の家紋(左三つ巴)が入った瓦(並びとは別の場所に)
ゆっくり案内していただいて感激。
よく維持管理されたすばらしい重要文化財のお屋敷だった。
帰りに「奈良県浄化センター」の外周を歩いて駅に戻る。
これは何だ? ユニークな形の4つのタンクがつながっている。
帰って調べると「汚泥消化タンク」というらしい。
”消化”? ”浄化”の間違いでは?と思ったりしたが・・
「汚泥内に含まれる有機物を、嫌気性細菌(酸素がない条件下で増殖する細菌)によって分解」することを”消化”というらしい。
へええ~。