二上神社口から石光寺へ。
山麓を覆っていた霧も歩き出した頃にはすっかり晴れた。
石光寺(染寺とも言われる)中将姫の伝説のある花の寺として有名。
右に繁っているのはサルスベリの古木
ボタンの花が見頃だった。
ボタンの花色の豊富さ。咲き方さまざま 大きい花は華麗だ。
こんなに立派な花を咲かすにはお手入れも大変だろう。
ボタンの後にはシャクヤクのつぼみがスタンバイ。
まだまだ花が楽しめそう。
八重のフジ ノダフジやシラフジも開花中。
(セイヨウ)シャクナゲも満開 大きい木。
キレンゲツツジ
高尾寺跡から傘堂へ。
傘堂
江戸時代に、この地の郡奉行 吉弘統家 が主君 郡山藩 本多政勝 の菩提を弔うために建立したという。
添え柱があるとはいえ、1本脚でよく長らく立っていること。
當麻山口神社 大山祇命や彦瓊瓊杵尊 木花咲耶姫命などを祀る。
一の鳥居は山口神社ご本殿ではなく、二上山「雄岳」を向いている。
ツツジに吸蜜に来たアゲハチョウ これは・・ジャコウアゲハだ。
幼虫の食草はウマノスズクサ
無心に蜜を吸っていてあっさりと私に捕まった。
すぐ開放してあげるよ。
公園の東屋でお弁当。 大伯皇女の歌碑が建つ。
ここは二上山のふもと。謀叛の疑いをかけられて処刑された大津皇子が二上山に眠っている。
黒門(北門)から中将姫ゆかりの當麻寺へ。
當麻寺本堂(国宝)
東塔(国宝) 西塔(国宝)もある。
金堂(重文)講堂(重文)・・文化財がずらり。
この石灯籠は白鳳時代 日本最古のものらしい。(重文)
梵鐘(国宝)も白鳳時代680年代に鋳造されたもので、日本最古。
仁王門のそばに、奉納された大わらじ
矢印の所に小さいわらじ(下)と、豆わらじ(上)
當麻寺 仁王門(東門)から出る。
東へ折れ、俳人松尾芭蕉が當麻寺に詣でた時に通ったといわれる「芭蕉の小径」を通り~車道を下る。
旧道を入り、浄土宗 白雲山 未来寺 西光院へ。ここは初めて来た。
『開創は寛文2年(1662)本堂・観音堂・薬師堂・庫裏・僧房・鐘楼・山門 小規模ながらも七堂伽藍を具える』(説明板)
西光院 本堂 本尊 阿弥陀如来坐像 延命地蔵菩薩立像(重文)
観音堂には 11面身扮(みそぎ)観世音菩薩像
『戦国時代、長谷寺の観音を彫るため、竹内峠を越えてクスノキの大木が運ばれたが、峠付近が急坂で狭いため梢の部分を切り落とし、長谷寺へと運ばれた。その梢の一部を扮いで作り上げたのがこの像だと言われている』
[竹内峠のことを身扮(みそぎ)峠ともいったらしい]
下って竹内集落へ。
綿弓塚 休憩所
1992年(H4年) 築約100年の建物を改修整備してできた。
中の展示を見たり・・
これは綿繰りをする道具「綿弓」 綿の繊維をほぐすのに使われる。
想像していたよりはごつかった。竹製のもあるらしい。
ボランティアの方?が来られて綿弓のことなど説明してくださった。
庭に建つ「綿弓塚」
俳人 松尾芭蕉は門弟で竹内出身の千里の案内で竹内を訪れ、気に入ってその後幾度か来訪滞在したという。
「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」(野ざらし紀行)の句碑も立つ。
宿としていた家の竹藪の向こうから綿を打っているビンビン響く音が琵琶の音のように聞こえた。
司馬遼太郎は母の実家があった竹内で3歳まで暮らし「街道をゆく」の中でも思い出を記している。
竹内街道は推古天皇21年(613年)難波津と飛鳥・小墾田宮を結ぶ「大道」として整備されたわが国最古の国道。難波大道と横大路を結ぶ街道。
難波から大和へ、多くの人・物・文化が往来し、竹内は宿場町として栄えた。
ギャラリーに立ち寄り、子満免地蔵尊の前を通って長尾神社へ。
長尾神社
竹内街道・初瀬街道(横大路)・長尾街道 が交わる交通の要衝に鎮座する。
「真東1直線上に伊勢の下宮」
蛇の伝承では「三輪神社が蛇の頭で蛇の尾は長尾神社」の伝承もあるとのこと。
ここから近い磐城駅で解散となる。